20151129  『 365日の神飛行機 』 イザヤ書 52:1〜10
 
 かつて内村鑑三に学び、無教会派の伝道者として働いた石原兵永という牧師がいました。次第に戦争の足音が近づく中、弾圧も恐れず、「平和の福音」を説き続けた人でした。1932年に「今や、地上にあるものは平和ではなくて、戦である。戦の噂である。戦の不安である。戦の準備である。」と書き始めた文章の中で、では神さまは私たちを欺き、聖書のみ言葉は私たちを偽ったのか、平和の君は無益に地上に生まれ、約束された平和の福音は夢であったのか、と問うて、こう答えました。
 「否、否、否、然らず。聖書は間違っていない。誠実なる神は我らを欺きたまわなかった。平和はまさに地上にある。どこにあるのか。平和の福音を受けし人のふところに宿る。平和は福音と共にある。活ける神の子キリストと共にある。力強き永遠不壊の平和が存するのである。しかもこれ決して理由なき平和ではない」と。
 さて今日から、新しい教会暦アドヴェントに入りました。2015年という意味では、あと一ヶ月となりました。今年はどういう年だったでしょうか。個人的に良いことも悪いこともそれぞれおありだったと思いますが、社会的には偽装と強権の吹き荒れた年だったように思います。偽装の方は、皆さん記憶に新しいでしょうが、強権の方は、何だかものすごい昔のことのように思えます。安倍内閣の事です。戦争法案とも揶揄される新安全保障関連法案を数の倫理で強引に成立させてしまいました。あれは一体何だったのかという気がしますけれど、成立した以上、消えてなくなった訳ではなく、これからジワジワと影響を及ぼしてくるのは間違いありません。今またまさに、戦の噂があり、不安があり、準備があるのだと感じてならないのです。
 今日与えられたテキストはイザヤ書52章でした。今からおよそ2600年ほど昔、イスラエルはバビロニアに破れて、国の主だった人物を中心に相当数の人々が捕囚となってバビロニアに連れて行かれました。
 以来およそ半世紀。残された人々はリーダー不在の中で、夢も失い希望も持てず、空ろな生活を続けました。戦いはむしろ戦いの後に、より一層の破滅をもたらしました。しかしそれでも一部の人々は、廃墟と化して50年の間、なお神殿に集って力ない礼拝を守って来たのです。
 そのような人々に第二イザヤが与えた予言がこの52章です。小見出しには「主は王となられる」とあります。この時、世界の王とはバビロニアの王のことでした。圧倒的な権力の前に、何をどうすることもできず、諦めの日々をただ送るしかなかった人々に、けれどもイザヤを通して、見える王ではなく真実に到来される王の姿を神様ご自身が望まれたのです。
 廃墟と化した神殿は、イスラエルの人々にとって、まさしく敗北と絶望の象徴でした。半世紀も時が経つうちには、もはや諦めと言うより、それは公然の事実であり、厳然たる現実の前で、人々はうなだれを受け入れるしかない状況であったでしょう。自分たちの人生は何なのか、生きる価値や値がどこにあるのか全く見えませんでした。
 しかし神さまは現れて彼らを励ましたのです。「奮い立て、奮い立て」と。これは「起きよ」という事です。起きて、見よと語られたのです。確かに過去起こったことは否定のしようのない事実であり、しかもそれはそもそもイスラエルの人々の不信仰によって引き起こされたものでした。けれども、バビロニアの傲慢によってただ同然で売られたイスラエルの民たちの、余りにも悲惨な現実を、神さまはよしとされなかった。それは神さまご自身の名が、常に絶え間なく侮られていることだと思われたのです。そこで、他のどこでもない、その廃墟の只中に神さまは立たれました。「見よ、私はここにいる」と宣言なさったのです。ここから起きて立とうではないか、立って見ようではないかと。
 以前、こんな話を読みました。1979年、カンボジアが非常に不安定だった頃のことです。カオダインという難民キャンプを訪れたフランス人新聞記者の話です。
 彼が通訳と一緒に歩いていると、土ぼこりの中に、生気を失った一人の少年が、人々の群れから離れて、一人ぼんやりと座り込んでいたそうです。記者は少年にこう話しかけました。「君は信頼できる子どもだと思う。僕がこれから写真を撮り、取材をする間、このカバンを預かってくれないか?」それは記者にとって、すごく勇気のいる決断でした。なぜなら、カバンの中にはパスポートやたくさんのお金も入っていたからです。
 果たして、通訳を通してこの誘いが話された途端に、それまで生ける屍のようだった少年の表情に、みるみる生気が蘇って来ました。少年はそのカバンをとても大事に守りました。衰弱してよろめく足取りを一歩一歩踏みしめながら、一日中記者と通訳の後ろをついて回りました。そして時々記者を見上げて、カバンをぽんぽんと叩いて「大丈夫」という意思表示をしながら、その日を終えたと言うのです。
 まるで活ける屍のようだった少年にとって、自分が信頼され、認められるということは、食べ物や着る物を与えられることよりずっと、生きるために必要なことだったのでしょう。必要ないという存在から、必要とされる存在に変えられること、用いられることこそ、人にとってなくてはならない力です。それを私たちは愛と呼びます。
 2600年前、神さまはもはや自分たちは必要ない存在であり、生きるに値しない者だと諦めていたイスラエルの人々に、見よ、私はここにいる、あなたは私にとって必要な存在なのだと声を掛けました。そして続けられたのです。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は、いかに美しいことだろう!と。それはもちろん見た目の事ではないのです。山々を行き巡る人の足は、むしろ汚れていたり、疲れていたり、傷ついていたりで、見た目にきれいではないのです。しかし用いられる人の足はしっかりと立っているのです。立たされているのです。カンボジアの少年が衰弱した足で、記者の後に続いたようにです。用いられて立つ人の足は、きっと美しいのです。
 用いたほうの、この新聞記者は、後日こう語りました。「自分の一生を振り返って見て、自分が行った最大の善は、あの時あの子どもを信頼したことだ」。それは数年のちに再び記者がカンボジアを訪れた時、キャンプの指導者からあの少年は今立派な青年となった。あの日を境に、彼は劇的に変ったと聞かされたからなのです。記者は更にこう言いました。「人間にとって最大の惨めさは、極貧でもなければ、飢えでもない。身内の者の虐殺を見た恐怖ですらない。最大の惨めさは、自分は誰にとっても不要な存在だと感じさせられることなのだ」
 いかがでしょうか。今日本は幸いにかつてのカンボジアのような戦場ではありません。直ちに飢えが訪れるような状況にもありません。しかし一方で明らかな格差が進んでいます。それはただ経済上の格差ではなく、用いられないという格差ではないかと思うのです。用いられない空しさが、次第に満ちています。その中で「徴兵制度があってしかるべき」などという政治家の声が聞こえて来ます。愛ではなく強制によって、命ではなく物のように扱われて、平和が破れて行くのです。そこではとりわけ弱い人々の存在が、失われます。
 今年秋からのNHK朝ドラ「あさが来た」。冒頭のテーマミュージックは「365日の紙飛行機」。AKB48が歌っています。「♪時には雨も降って、涙もあふれるけど、思い通りにならない日は、明日頑張ろう!」。
 教区社会部公開学習会として14日に「カミングアウト」という映画の上映会を行いました。ゲイであることを告白すること、とりわけ親に告白することを苦しみの中で決断する一人の大学生の物語です。時々ゲイが集まる新宿2丁目のバーのママに悩みを聞いてもらいます。その過程で、ママが言うのです。「苦しいよね。だけど、私たち、このおかげで人生は思い通りにならないことを人より先に知らされたのよ。幸せじゃない。」
 色々なこの世の妨げがあって人生は自分の思い通りにはならないのです。ですが思い通りにしてはならないのです。私はたぶんこれまで好きなように人生を歩いて来ました。大反対があっても牧師になりました。連れ合いがよく知っています。でも、自分の思い通りの人生ではなかったのです。私の人生はすべて神さまの翼に乗っかったものでした。そのようにしてどうにかこうにか用いられて参りました。

 一人の命を用いるために、今年も神さまが一人子イエスを送って下さいました。私たちを乗せて飛ぶ神さまの神飛行機です。私たちは神さまの神飛行機に乗っかっている訳ですから、そうそう簡単に自分の思い通りの人生を過ごすことはできません。イザヤは言いました。「しかし、急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」
 私たちが思いを寄せる前に、救い主が私たちに思いを寄せて下さいました。自分の思い通りにはならなくても、すべてこれでよしとまとめて下さり、あまつさえ用いて下さる神さまの翼により頼んで、新たに始まった年365日、人生をなおも喜んで飛びたいと思うのです。


 天の神さま、あなたは前から導き、後から支えて下さいます。また私たちの心に宿って下さいます。あなたが近づいて下さるアドヴェントをともども、感謝のうちに過す者とならせて下さい。



 
 
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