20151206  『 お帰りなさい! 』 列王記上 22:1〜17
 
 グーグルという企業があります。皆さんもご存じの方が多いでしょう。そのグーグルが企業や団体に向けて「インパクトチャレンジ」というコンテストを行っています。これは新しい事業を発掘するためのコンテストで、今年のグランプリに釜ヶ崎のホームドアという団体が選ばれました。最大で5000万円の資金がグーグルから出るのです。クライムレスと名付けられたこの新事業は、釜ヶ崎の日雇い労働者を雇って、GPS機能を取り付けた自転車に乗って、釜ヶ崎をパトロールさせるというものです。泥棒だとか麻薬密売だとか犯罪を発見したら、すぐ警察に通報する訳です。仕事のない労働者に新たな仕事を確保し、同時に釜ヶ崎内の様々な犯罪を減少させるのが目的とされています。一見ナイスなアイデアのように思われます。
 けれどもよく考えれば、釜ヶ崎を犯罪の巣窟とみなし、同じ釜ヶ崎の住人を警察の手下のように利用して労働者の関係を分断する危うい事業であるのです。犯罪を発見した労働者がトラブルに巻き込まれる可能性が十分あります。このクライムレス事業の情報を得た私も関わっている釜ヶ崎公民権運動運営委員会では、実施を断念するようホームドアに説得に努めて来ました。そのかいあって、現在のところまだ実施されていません。けれどもグーグルのコンテストの規定では、こうした新事業のアイデアはすべてグーグルが所有することに定められていて、たとえ釜ヶ崎で実施されなくてもグーグルは世界にそうした事業を紹介し、売ることができるシステムになっているのです。安心できません。そもそも釜ヶ崎を住居にしている人たちから、温かさを奪うような発想が悲しいのです。
 さて今日読みました列王記は、サムエル記の続編として書かれたものです。ダビデ王からソロモン王へ移り、その後北と南に王国が分裂して、ついには崩壊するまでのイスラエルの歴史が歴代の王の姿を通して描かれています。
 およそ2800年ほど前、イスラエルの王はアハブ王でした。この王様はバアル宗教を信奉し、数々の悪行を重ねたとびきり悪い王様でした。そこへユダの王様ヨシャファトが尋ねて来ます。アハブ王は両国力を合わせてアラムと戦い、ギルアドを奪おうという提案をするのです。ヨシャファトはアハブと違って、基本的にはイスラエルの神に忠実に従おうとする人でしたから、まずはアハブ王の提案が神様にとってどうなのかを聞こうとしました。そこでアハブ王は、国中から400人もの預言者を集めて、意見を聞いたのです。けれどこれらの預言者たちは、要は王様の太鼓持ちであって、王様の都合の良い事しか語らない偽りの預言者たちでした。ヨシャファトは、この回答に納得が行かず、他の預言者を呼ばせたのです。
 そこで招かれたのが、ミカヤでした。彼はそれまでアハブ王にとって気に食わない預言を続けて来た人でしたので、王から嫌われておりました。ミカヤを呼びに行った使いの者が彼にも他の預言者たちと同じ預言をするよう進言したので、一旦はミカヤもそうしたのです。それは一見皆と同じ預言ながら、実はヨシャファト王への励ましの預言でした。ですから、かえってその答えがアハブ王にひっかかりました。
 そこで彼は更に預言を続けて、神さまが示された通りの言葉を進言したのです。それは、17節にあるように「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのを私は見ました。主は、彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に帰らせよ」と言うものでした。正しい信仰を持たず、自分の私利私欲のためだけに動くアハブ王の下で、いたずらに働かされる国民の状況を指して語ったのです。アハブには国民が誰一人見えてはおりませんでした。その悲惨な有様を見て、神様は彼らをそれぞれ自分の家に帰らせよと語られたのです。
 大阪市は、今年の越年越冬のために南港にホームレスのためのシェルターを新しく作りました。見栄えは良いそうです。でも蚕だなのような二段ベッド、そこに4人が寝るのです。台所の設備なども最小限のもので、ほとんど「収容所」としか言えない代物なのです。帰る家がない人たちが21世紀の日本に大勢います。
 しかし今日のテキストについて、「大切なのは場所としての家に戻ることではなく、結びつきとしての家に戻ることである。ハウスではなく、ホームこそが神が導かれるところではないだろうか」と書かれていました。私も同感です。ハウスも必要ですが、より必要なのは魂の安らぎ憩える場所、覚えられ結び合えるホームだと思うのです。誰にとっても。
 渡辺和子というシスターがいます。ノートルダム清心女子大の学長を長く務められ、現在は理事長でいらっしゃいます。渡辺先生は、自分の講義の折、学生たちに自由に感想や質問・反論何でも書いていいメモを渡されていました。そしてそれを出した学生一人一人に一筆箋で返事を返しておられたのです。或る時、一人の学生がその返事に対して更に返答を書きました。
 「質問へのお返事を書いて下さってありがとうございました。私は今までシスターにとっては何千人の中の一学生に過ぎない。きっと4年間在学していたことにすら気づいてもらえないだろうと思っていました。でも違ったのですね。私もシスターに大切にして頂いていること、シスターに愛されていることを感じました。同時に、ああこんなふうに私も神さまに愛されている、大切にされている一人の人間なんだと気づきました。私も教師になったら生徒一人一人を大切にして行きます」
 一筆箋のわずかな交わりから、覚えられている、用いられている暖かさが生れました。一つのホームがそこにありました。
 スペインの思想家であるウナムーノという人がこんな文章を書いています。「我々は楽しい時は自分自身を忘れ、自分が存在することを忘れ、他者の中に自分を引き渡し、自己疎外する。我々は苦悩においてのみ、自己沈潜し、自分に帰り、自分自身となるのである」これまたその通りです。苦悩の中で初めて私たちは弱くて貧しくてもろい自分自身を見るのです。その意味で自分に帰ることになるのでしょう。しかしその発見はそういう自分をしっかり受け止めてくれるものや人や場所があって、意味を持つのです。そうでなければ出かけてゆかれないのです。小学生の頃かぎっこだった私は、当時しんとした家が限りなく寂しくてしようがありませんでした。正直言って帰りたくありませんでした。まして帰るべきハウスどころか、心の居場所ホームすら奪われている人々がいまだに溢れている社会とは何でしょうか。
 今日の箇所を読む時、イエスが5000人の群集に食べ物を与えられた時の場面を思い出さずにはおれません。マルコによる福音書では、「イエスは船から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と記しています。よく知られているように、深く憐れみと約されている箇所は、もともとは腸が痛むという言葉です。心の行き場所のない群集を見て、腸が痛むほどにイエスは深く憐れまれた。そこには一人一人をしっかりと見つめられる視線と暖かく受け止める心が存在しました。そしてイエスは彼らを十分に満腹させるほどの食べ物を与えられたのです。彼らはその食事において、主の視線と心を感じ取り、深く味わったことでしょう。そこに帰るべきホームがあると知ったのです。
 受洗者が与えられた時、いつも「お帰りなさい!」と声を掛けている牧師がおります。頼るべき羊飼いがいなくて、羊が四方に散らばっている現代日本です。また世界中に同じ状況の人が散らばっていることでしょう。日本よりもっと悲惨な環境の人々がいるでしょう。イエスは腸が痛む思いを持って、それらの人々を見つめておられる。そして「お帰りなさい!」と声をかけておられるに違いありません。きらびやかなイルミネーションから遠く離れた場所にあって、でもそこで生きている人々を忘れず、私たちも主のまなざしと心を持ちたいと思うのです。


 天の神さま、あなたは救い主を下さって、私たちが帰る暖かい場所を備えて下さいました。そこは私一人の場所ではなく、招かれた者すべてが憩う場所ですから、私たちも主に倣い、伝え、輪を広げて行くことができますように。


 
 
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