20151213  『 アイシテルのサイン 』 ヨハネ1:19〜28
 
 熊本県出身で、戦後愛媛県で高校教師をしながら詩作活動をした坂村真民(さかむら・しんみん)という詩人がいます。「念ずれば花ひらく」を筆頭に花を題材にした詩が多いんですが、今日は「冬が来たら」という詩を一部紹介します。
 「冬が来たら  冬のことだけ思おう
 冬を遠ざけようとしたりしないで
 むしろ進んで 冬のたましいに触れ 冬の命に触れよう
 冬が来たら 冬だけが持つ 深さときびしさと 静けさを知ろう
 冬は私に いろいろの事を教えてくれる
 先ず沈黙の大事な事を
 すべての真理は この沈黙の中からのみ 生まれてくることを
 それから自己試練の大切な事を
 すべての事を成就するには この不屈の魂によってのみ 成功する事を」
 坂村真民は、基本的には仏教の信仰者でしたが、一方でキリストも尊敬すべき方として大事にしておりました。寒くてつらい冬を取り上げ、それと真正面から向い、あれこれ反論をなすよりもまずは沈黙して大事な事を聞こうと言う。彼の生き方が、この詩によく表現されていて、私はこの詩を読むと、今日のテキストのヨハネの事を思い起こすのです。
 ヨハネはよく知られているように、マリアの親戚であるザカリヤとエリサベトの子どもとして誕生しました。他の福音書を読むと、「らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」とあって、非常に質素な生き方をしていた人でありました。ちょうど「冬が来たら」の詩の通りに、沈黙してまず聴こうとした人だったと思うのです。
 この人物が一人ヨルダン川で悔い改めのためのバプテスマを開始したのです。ここに大勢の人が訪れました。その影響をよしとしないファリサイ派が、祭司とレビ人をわざわざエルサレムから派遣して、「あなたは誰だ?」と尋ねさせるのです。
 19節に「あなたは、どなたですか?」と質問したと記されていますが、これは作られたきれいな訳であって、本来は「お前は誰だ?」という、大変偉そうな物言いでした。要は救い主でもない、エリヤでもない、預言者でもない、名もない一介の田舎者が、誰の許しを得て、何の権威でもって人々に洗礼を授けるような大それた事をしているのか、そういう批難と怒りが背景にあったのです。
 これに対してヨハネはイザヤ書4章の言葉を用いて返答しました。「私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ、と」と。これがヨハネが自分の人生について逃げないで向い合い、沈黙して聞いたことの結果なのでした。端的に言うと、これから真の救い主が与えられるのだけど、その時初めて神さまの愛が現れるのではない。神の愛はその前からずっと私たちに与えられていて、私たちは実は満たされているのだ、ということの発見だったのです。
 客観的に見れば、一人寂しくヨルダン川へ出向いて、そこで自ら質素な生活を続けるような事は、通常理解しがたい行動でしょう。でもそれは彼にとって自分より後に来られる方を待ち望むための必要不可欠な選択でした。それが主の道をまっすぐにしながら備えるということでした。もちろん誰から命じられた訳でもありませんでした。敢えて言えば神様からの使命を受け取ったのです。すでに神の愛が与えられている!それを伝えることはまさしくヨハネにとっての自己試練であり、それをなし続ける不屈の魂によってのみ、使命が果たされる事だったと言えます。
 不屈の魂などと聞くと、私などはとてもそんな固い意志も信仰も持ち合わせておりませんから、到底自分にはできっこない、それはやっぱり選ばれたそれに相応しい人物のなす業だと思ってしまいます。それはその通りです。
 しかし、そのようにヨハネは偉い、彼は特別だと評価してしまうと、それはヨハネを訪ねた祭司やレビ人たちと実は変わりません。彼が為した事を特別化することによって、その本質を見なくなるからです。確かにそれはヨハネにのみ与えられた特別な生き方ではありましたが、ヨハネにとっては自分だけが特別な役割でも存在でも人生でもなく、ただただ祭司やレビ人のような人も含めて、まだ後から来る人を証しするために真理を見続けようとする喜びと期待に満ちた自己試練であったのです。
 違う表現をするなら、それは神さまから愛されているということの証しでした。神様が愛しているよというしるしとしてヨハネの業を用いられたということでした。ですから洗礼を授けることそのものが一番大切だったのではなく、それはより大切な方が後から来られるという事を示すためのサイン、愛のサインであったのです。
 ちなみにヨハネの授ける洗礼はかなりきついものだったといいます。どぼんと水に漬かると、上から頭を押さえつけて、息が続かなくなるぎりぎりまで押し込める。力をゆるめられ、やっと息ができて「う〜、何すんねん!死ぬか思うた!」と文句を言いたくなるような厳しさだったそうです。でもそれが古い自分を捨てて新たに生きようというヨハネの思いでした。
 さてマリアン・アンダーソンというアルトの歌手がいます。彼女は1902年にアメリカのフィラデルフィアに生まれ、オペラ歌手を目指して23歳の時コンクールの新人賞一位となりました。それから歌手活動が始まるのですが、黒人ということで様々な差別を受けて苦しみます。当時全米愛国婦人会という保守系の団体が彼女を厳しく拒否したので、有名な劇場では一切舞台に立つ事ができませんでした。
 そこで31歳の時ヨーロッパに演奏旅行に出かけるのです。これが注目を浴びました。トスカニーニが「100年に一人の逸材」だと絶賛した事もあって、戦後53歳の時に初めてメトロポリタン劇場に出演することができました。キング牧師のワシントン大行進の折に、説教の前後で黒人霊歌を歌ったのが彼女です。
 彼女はこういう言葉を残しています。
「人を押さえつけている限り、あなたの中の一部もその相手を抑え続けるために
 そこに押さえ込まれざるを得ない。」
 つまり、相手を抑える手を緩めない限り、あなたは空高く飛ぶことは出来ないのだ」
まさに、黒人差別という荒れ野の中で叫んだ声だったと思います。
 たぐいまれなる美声という賜物を与えられながら、非常に謙虚な方でした。
「人は長く生きれば生きるほど、自分一人でできるものは何一つないということが分ります。声でも息でも、何でもあっても私一人ができるものではありません。だから、私というのは結局小さなものなのです。けれどもその小さい役割こそがとても大切なのです」と語っています。
 彼女には舞台に立つ前、必ずすることがありました。それは舞台の袖から観客に向って「アイ ラブ ユー」と3回呟くことでした。これを言った後、祈ってからステージに向ったのだそうです。今年はラグビーの五郎丸選手がキックの前にする精神統一のためのルーティンのしぐさが有名になりましたが、マリアン・アンダーソンのそれは、精神統一のためのルーティンではなく、愛のサインであり、アイシテルのサインであったのです。
 私たちにも心のただ中に荒れ野があります。その意味でヨハネと同じです。叶って欲しい願いがあり、変えなければならない現実があります。けれどもそのほとんどは今は、或いは当面多分どうにもできない荒れ野の現実でしょう。そこでしばしば神の不在を嘆きます。
 しかし私たちには既に救い主が与えられているのです。ヨハネとは違うのです。すでに与えられ、満たされている上に救い主が与えられたのです。観客が知らなくてもマリアン・アンダーソンがなし続けたように、私たちの知らないところで、私たちが神さまから愛されているサインが送られているのでしょう。気づかないだけで存外、身近なところにもアイシテルのサインが送られているのかもしれません。
 クリスマスはそのサインに気づく時です。すでに満たされている。そしてさらにやってくる。神様からのサインに気づきたいと思います。そして気づいたなら、私たちも主の道をまっすぐにする者の一人として、それぞれに与えられた人生の中から誰かへ向けてアイシテルのサインを送る者とされるのです。

 天の神さま、あなたが私たちを愛して下さり、常にそのサインを示しておられるように、私たちもそのサインを受けて、また別の隣人にサインを送る者として下さいますように。



 
 
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