20151220  『 今年もプレゼントは「軌跡」です。 』 マタイ1:18〜25
 
 毎年USJユニバーサルスタジオジャパンのクリスマスのキャッチコピーは、私に刺激をくれます。今年のそれは「今年のプレゼントは奇跡です」というものでした。この場合の奇跡は、ミラクルの奇跡です。おいおい、今年はミラクルかよ、と思いました。そうではないぞ、と思いました。 イエスが話された、迷い出た羊のたとえ話を思い起こします。「百匹の羊のうち、迷い出た一匹を飼い主は、他の九十九匹を置いて探しにゆくだろう、そして見つけたら、迷わなかった九十九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう」そう語られた有名なたとえ話です。今日のテキストと同じく、マタイによる福音書の18章に記されています。
 この迷い出た一匹の羊ですが、迷い出たと訳されていますから、何だか自分で勝手に群れを離れたというふうに解釈できます。でももともとは違うのです。この単語は受身の形で書かれていますから、迷い出たと言うよりは、迷い出されたと訳すべき言葉なのです。自分勝手にどこかへ行ったのではなく、そうせざるを得ない状況があってそうなった。もっと率直に言えば、追い出されたとも言える言葉であるのです。
 羊は元来おとなしい動物です。そうそう迷い出たりはしません。もちろん、百匹もいれば、それぞれ個性も違いますから、時に身勝手な行動をする者もいるかもしれません。けれども、そういう羊の話をイエスはされたのではないのです。どうしても馴染むことができない、受け入れられない状況があって、居づらくなって、出て行くしかないことが私たちの世界では実際起こされるのです。例えその行動自体は自ら選んだものだったとしても、よく考えて見れば、追い出されたとしか言えない事態が少なくないのです。ですから羊のことではなくて、私たち人間の状況を示しているのです。
 でも、イエスは、そういう羊を探し出し、見つけたら喜ぶだろう、と語られました。喜ぶのは誰か、言うまでもなくイエスご自身であり、神さまです。
 来年はアメリカ大統領の選挙が行われる予定です。8年前、オバマさんが選ばれた時、そのニュースに涙を流しながら喜んでいた人たちの中に、かつてマルチン・ルーサー・キング牧師と一緒に黒人解放運動を続けてきた一人の牧師がおりました。彼はキング牧師が語った言葉をもう一度語りました。「ついに自由が来た!」と。
 でも残念ながら、未だ真の自由は来ていません。キング牧師の夢は叶えられてはおりません。しかしもう来ないのではなく、いつか必ず来ると信じます。1968年、キング牧師が凶弾に倒れてから40年、その夢の実現に向かう一歩として、初の黒人大統領が生れることになりました。次の一歩が必ずやって来ます。
 イエスの誕生のシーンをマタイによる福音書から読みました。ルカによる福音書の記録も合わせて思い起こしたいと思います。自分の子どもではないマリアの出産をヨセフは悩みつつ受け入れました。マリア自身も同じです。この世に受け入れられず、人にはばかられる事情があって、イエスは密かに誕生されました。ご存知のように、宿屋にはヨセフ・マリア夫妻の泊まれる場所がなかったのです。宿屋の陰にあったであろう洞窟の家畜小屋で産まれ、石をくり抜いて作った飼葉桶に寝かされたのです。
 私たちは当然思うでしょう。救い主の誕生としてまことに寂しい誕生だ、哀しすぎると。もちろん、その通りです。もうちょっと何とかならなかったのか、と思います。せめて、わざわざベツレヘムまで行かされず、ナザレで生れていれば、少しは事情が違ったかもしれないだろう、そんな事を思います。
 けれどもどこであったとしても、恐らくイエスの誕生は、はやりヨセフ・マリア夫妻だけの誕生だったろうと想像します。結婚前に子どもができるという、世間に言えない事情を抱えていたからです。むしろ、しんどかったかもしれないけれど、ナザレよりベツレヘムの方が、事情を知る人がいないので精神的には楽だったかもしれません。ともかく、それは私たちから見れば本当に理不尽で、寂しい誕生だったと言う他ありません。仮に通常であればそこにヨセフ・マリアの家族がおり、親族がおり、友人たちがいて祝福に満たされたはずです。でも満たされるどころか、始めから欠けがありました。
 けれども、だからこそ、ここに神の夢が託されたのだと思うのです。その欠けにこそ意味があったのです。繰り返しになりますが本来は、赤ちゃんの誕生、新しい命の誕生は、多くの人に囲まれ、喜ばれる希望の光景であるべきです。イエスの誕生は、それと違って、ヨセフとマリアしかいない、誠にうら寂しい光景でした。しかし、そこにこそ神さまが血縁・地縁関係ではない他の誰かを招いておられた。欠けはそのためのものだった、そこにこそ神さまの願いが込められた誕生だったと思うのです。
 そこにはじめに招かれたのは一体誰だったでしょうか?羊飼いたちでした。それは象徴なのです。そこに招かれたのは実は弱さを抱え、人生のつらさを抱え、それでも懸命に生きてゆかねばならない世界中の多くの人々であったのです。そのことに気づかない人々に、敢えて神はいつかそこにお招き下さるため、他の誰をも同席させられなかったのです。そこには神さまの夢が詰まっておりました。
 この世的には寂しい誕生だったかもしれません。でもその幼子は、成長し、神さまの夢を確かに受け取る人として成長しました。だからこそイエスは、一人の追い出された羊を探し、見つけたら喜ぶと語る人となられたのです。
 まさにこの誕生の一シーンにこそ、神さまの夢が描き出されていました。いつかそこに数え切れない大勢の人たちが訪れて、共々に救い主の誕生を喜び分かち合う日が来る。その寂しい誕生は、神さまの夢を叶えるための欠かせないワンシーンでした。
 クリスマスにいただくプレゼントは、この神さまの思い、イエスの足跡・軌跡を思い起こすことで、それは毎年同じものなのです。ですから今年もプレゼントは「軌跡」です。
 ありがたい事に、私たちはその軌跡の原点へと招かれました。しかし或いは、そこに私たちの心に願う人々が事情によって、まだ出席できていないかもしれません。神さまが願う人々がまだ来てないかもしれません。だとすれば、残念です。申し訳なく思います。けれども、夢を叶えるワンシーンは、まだ完成してはいないのです。ここにまだ見ぬ多くの人々、とりわけ追い出されてさ迷っている、この世の苦難を抱え、にもかかわらずこの世から見捨てられている人々がすべて相集う時が来るまで、私たちはクリスマスの意味を、主の生涯を語り伝えるために毎年用いられる。用いられて行くのでしょう。その希望をかみ締め、今日分かち合いたいと思うのです。


 天の神さま、クリスマスは神さまの夢を叶えるための、出発点です。本当に、神さまのみ心が満たされる世が来たりますように。その日まで、まだ見えないけれど、しかし確かな希望を持って、共に生きる事が出来るようにして下さい。


 
 
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