20151227 歳晩礼拝 『ワンダークリスマス』
 
 歳晩礼拝に定番のテキストが与えられました。イエスの誕生後、東の方から占星術の学者がやって参りました。いわゆる東の博士の物語です。皆さんご存知のように、この出来事は、ユダヤ人以外の外国人に初めて救い主の姿が表されたということで、公現日とされました。公現日は1月6日ですから、現在まだまだ彼らのクリスマスは長いのです。博士たちは今頃、らくだに乗って、はるかナザレを目指して遠い旅を続けていたことでしょう。
 ところで聖書には「学者たち」と複数形で書かれているだけで、何人とはどこにも記されていません。でも3人だということになりました。当初8人だとか13人だとか言われていましたが、ヨーロッパ、インド、アフリカを代表する人として3人となったとも言われますし、黄金、没薬、乳香の捧げ物に応答する3人だとも言われます。こうしていつしかカスパル、メルキオール、バルダザールという名前がつけられました。そして更には実はもう一人いたという話も生み出されました。
 アルタバンです。アルタバンも他の3人と一緒に旅をする予定だったのですが、約束の日その場所に行くことができず、3人は先に出発してしまい、置いてきぼりにされました。仕方なく一人で旅をすることになりますが、イエスと会えず、すれ違いばかりの旅となってしまうのです。贈り物として持参した宝石を抱え、何年も追いかけますが、目的は達成されません。困っている人を助けるために、どんどん宝石は無くなってゆきます。揚句、最後に残ったなけなしの大切な宝石までも分け与えてしまうことになるのです。そして遂に何もなくなり一文無しとなり、年老いて死を目前にした時に、イエスが現れるのです。イエスはアルタバンのした事を全部知っておられて、「あなたが困っている人、病んでいる人にしたことは、私にしたことなのだ」と声をかけられます。イエスに会うことが叶わず、自分の旅は無駄だったと諦めかけていたアルタバンは、そうではなかった、と感謝のうちに天に召されてゆく、これが有名な涙の「もう一人の博士」の物語なのでした。
 この話は、違う角度から言えば、遅れた者もちゃんと見られていて、救いに預かることができるという話だとも言えます。しかしそもそも3人の博士たちだって何日もかけてイエスのところにやって来た訳ですから、彼らとて救い主の誕生から「遅れてきた者」であったのです。羊飼いたちは赤ちゃんを礼拝しに来たのではなく、「用いられたのだ」ということを或る牧師(私の友人)が文章に書いています。そして羊飼いだけでなく、この3人の博士たちもまた用いられたのだと記すのです。それを読んで、私も本当にそうだと思いました。
 聖書には確かに長い旅の末に、博士たちが星を通してイエスに導かれ、彼らは幼子の前にひれ伏して拝んだ、とあります。また「拝みに来た」とも語っています。しかし、彼らが捧げたものを思うと、ユダヤ人の王様に貢物を捧げにはるばるやって来たとは思われないとこの牧師は述べるのです。彼らが捧げた乳香・没薬・黄金は、ただ高価な贈り物ではなかったからです。
 まず乳香は、ある樹木から採られる樹脂ですが、とても良い香がするもので、ユダヤでは神さまに捧げる香りの捧げ物として用いられました。しかしそれは同時に医薬品でもあって、鎮痛・排膿・止血などに効果があって、軟膏薬として使われたのです。また没薬は樹液から取った油で、香料としても用いられましたが、これまた殺菌作用を持つことから鎮静薬・鎮痛薬として使用されたのです。ちなみにアラビア語ではミルラと言い、ミイラの語源となりました。こういう事から、先の牧師はこう続けています。「止血・鎮痛の軟膏として用いられる乳香と殺菌作用を持つ没薬は、貧しく不衛生な環境に生れた幼子とその母にとって、その危うい命を守るためには大変ありがたいプレゼントだったに違いない。そしてもう一つの贈り物、黄金は王様の冠を作るためなどではなく、まさにこれからヘロデ王の虐殺を逃れエジプトに向けての大変な逃避行の中で命をつないでゆくためになくてはならない蓄えになったに違いありません。」そう書いて、この博士たちも、なくてはならないモノを与えるためにそこに導かれ、用いられたのです、と言われるのです。
 考えてみれば、クリスマスのシーズン、何気なく使われている「東の博士たち」ですが、イスラエルにとっては、東とは、例えばアッシリア、バビロニア、ペルシャなど、それまで繰り返し国を脅かしてきた危険な敵の方角であり、決して嬉しくはない、かえって不吉な思いを抱かせられる方角なのでした。ですから古来、イスラエルでは東は罪の方角と呼ばれて来たのです。
 またもう一つ、博士たちと言いますが、聖書にあるように彼らの故国では「占星術の学者」たちでした。故国では身分の高い人たちだったのです。だからこそヘロデ王にも招かれているのです。かつては属国として支配されていた国にやって来て、しかし現ヘロデ王ではなく、全く一人の無名の赤ん坊を拝み、その赤ん坊のために、今申しました高価な贈り物を捧げたのでした。こうして、忌み嫌われる東の国からやって来た身分の高い博士たちが、イエスのため、救い主のために「用いられた」のです。遅れてきた者に、確かな、そして深い意味が与えられておりました。
 さて今年の年末は暖冬ぎみではありますが、本当に薄暗く、寒々しい世相に包まれています。こういう現実の中で、ここ数年外出を控え出費を抑えて、家族で家庭でクリスマスを迎える人たちが増えたと言われます。もちろん、それはそれでいいのです。帰る家さえ失われた人たちがたくさんおります。日本にも、シリアにも。都合のいい時だけこき使われ、都合が悪くなると棄てられる。働きたくても、その場が与えられない。用いられない。競争に遅れた者、失敗した者は自己責任によって苦汁を強いられる、本当に冷たい時代となりました。
 こういう状況を目の当たりにして、例えば親や先生たちはこれから子ども達にどんな未来を描き、どう声をかけるのでしょうか。ほら、派遣では、非正規では食べていけないよ。住むところもないよ。だから、正社員にならないと。遅れてはならない。つまづいてもならない。そのために頑張って勉強して、いい大学にいい会社に入らないと・・・。こんな図式がますますはっきり見えて来るように思います。格差社会は、決して経済的なものだけでなく、構造的にも、精神的にも隔ての壁を限りなく生み出してゆくに違いないのです。
 「石田千」という女性作家がいます。47歳の方で、2015年度下半期芥川賞候補となっています。来年1月19日の発表を楽しみにしています。この石田さんが、「生きているうちは、ひとは世の中の役にたってしまう」と書いているのです。大変面白い表現ですが、例えば「犯罪者だって、警察が動けばガソリン補給や張り込み中のパンが必要となるし、尋問中は出前のかつ丼を食べ、収監されると職業訓練で人々に貢献する。つまりは「金銭物資の流通」が起こる。どんな人も役に立つから存在に意味があるのでなく、ただいるだけで意味がある」そう書き、「そもそも役に立たないでいることが難しい」というのです。励まされます。
 私たちがクリスマスを通して知らされるのは、思いがけない人たちが救い主のために用いられたということでした。貧しい羊飼いが用いられました。人々から忘れられたような存在だった羊飼いが用いられました。そして東からやって来た、異国の博士たちが用いられました。それぞれその行いに意味が与えられ、覚えられたのです。その意味で遅れてきたもう一人の博士の物語も、まったく同じ事が描かれた物語でした。ですからワンダークリスマスです。不思議な形で、不思議な出会いが備えられ、結ばれ、用いられたのです。人ひとりの人生がいとも簡単に切り捨てられてゆく今だからこそ、私たちはこのワンダークリスマスの示しを大切に心に抱いて、共に新年へ備えたいと思います。


 天の神さま、世間では既に終わった行事かのようなクリスマスですが、実はまだ続いています。思いがけない者が思いがけない形で用いられ、そして救われてゆく神さまの業は、だから本来一年中与えられる不思議な出来事なのです。感謝します。神さまの思いに目を留め、心に刻んで新しい年を迎えることができますように。
 
 
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