20160103 新年礼拝 『ALWAYS 三丁目の朝日―いち、にぃの、SUN!』
 
 かつてマザー・テレサが生前来日して講演をされた折、一人の男性がこんな質問をしたそうです。
「私はあなたを尊敬しています。ただ一つ、どうしても伺いたいことがあります。それは、なぜ、わずかしかない医薬品と足りない人手を、それをかけたらば生き返るかもしれない、元気になるかもしれない人たちに与えないで、どれほど手をかけても死んでしまうような、臨終間際の人に与えるのですか?無駄ではありませんか?薬が有り余っているのなら、人手が十分にあるのなら別ですが」
 この男性、すごい質問をしたものだと思います。はっきり言っていじわるかもしれません。
 これに対してマザー・テレサは、しかしはっきり「それは無駄ではありません」と答えられました。
「なぜならば、死を待つ人の家に連れて来られるホームレスの人たちは、望まれないで生まれ、生きている間中、人々から邪魔にされ、生きていても生きていなくても同じと考えて生きてきた人たちなのです。
 その人たちが、生まれて初めてやさしい人々の手によって体を清められ、髪をといてもらい、今まで飲んだこともないような薬をもらい、やさしい言葉で名前を尋ねられ、宗教を聞かれて、数時間後、十数時間後、人によっては数十時間後に死んでゆくのです。その人たちは死ぬ時に、サンキューと言って死ぬのですよ。
 産み捨てた親を恨み、冷たかった世間を呪い、助けてくれなかった神も仏もあるものかと思いながら死んでいってもかまわないその人たちが、神仏の存在を信じ、親を許し、世間と和解し、感謝して、笑顔で安らかに死んでゆくのです。そのために使われた医薬品、そのためにかけられた人手、時間ほど尊い使われた方はないでしょう」
 私はここに、マザーが信じたキリスト教の真髄が表されていると思えて仕方がないのです。私たちの世界は、進化されたところであればあるほど、そこでは徹底的に無駄が省かれ、合理化が進み、効率化が図られ、ただただ利益を上げることに全精力が注がれています。要はいかに儲けるかどうか、の一点です。それが遂に行過ぎると、偽装の問題となることを私たちは知りました。
 でも、私たちの救い主は、二千年前、そういう即物的、物欲的な生き方に疑問を呈されました。問い続けられました。病いを負う人々を訪れて慰め癒し、課題を負う人々に恵みと希望を与えられました。それは無駄、不必要と烙印を押された人々の救いであり、命の復活、発掘作業でありました。それは一見非効率的で、時間と手間のかかることでしたが、そこには真実の愛がありました。
 マザー・テレサが最初に来日したのは、もう35年も前のことでしたが、その時マザーは次のようにも語りました。「日本はきれいです。建物もきれいです。町を歩けば、みんなきれいな服装をしている。持っている物も、走っている車も、カルカッタとは天地の差があります。ところがそのきれいな日本で、家の中にいる夫と妻の間にいたわり合いがなかったら、親と子の間に対話がないとしたら、それはインドのカルカッタの泥でこねた家よりも、私は貧しいと思います」
 いかがでしょうか。30年あまり前のマザーの言葉が、依然厳しく痛い忠告に聞こえるままの日本の有様のように思います。この時、マザーの講演を聞いて感激し、決意した女子学生たちが「カルカッタへ行って奉仕したい」と申し出ました。
 それに対してマザーは「ありがとう。でもわざわざカルカッタまで来なくてもいいから、あなたの周辺のカルカッタで喜んで働く人になって下さい」と答えられたのです。この返答もまた依然としてその通りと聞かねばならない日本の現状でしょう。
 今年は暖かいクリスマス、そして新年となりました。暖かいと炊き出しに並ぶ野宿者が減ります。それは幸いなことかもしれません。それでも釜ヶ崎で600人、神戸でも150人を超える人たちが炊き出しに並ぶのです。カルカッタは確かにあります。
 しかしそのような有様、現状の日本において、神さまもまた依然私たちを招き、呼び続けていて下さいます。痛みや悲しみが満ち、希望を持って生きづらいこの世の中にあって、繰り返し招き続けられる神さまの呼びかけを第三イザヤは昇る太陽の光として伝えています。テキストをもう一度読んでみましょう。60章2節まで。
 「起きよ、光を放て。
 あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
 しかし、あなたの上には主が輝き出で、
 主の栄光があなたの上に現れる。」
 半世紀以上に渡るバビロニアでの捕囚がやっと終わり、必死の思いで帰って来た故郷イスラエルは、神殿は崩れ去り、生きる力を失って、生ける屍かのようにただ日々を過ごす同胞の姿でした。再び希望を奪い去られ、もはや救いなど永久に訪れることはないに違いない暗黒に包まれたユダヤの民に向かって、イザヤは「そうではない、今日も陽は確かに昇るのだ、自分で自分の人生を否定するな、起きて光を放て」と語って人々を励ましたのです。
 2016年の歩みが始まりました。私たちはたまたまこの御影・東灘周辺に住み、たまたまここに建てられた東神戸教会に集っているのでは決してありません。神さまに命を捕えられ、信仰生活の恵みと真理をいただき、そして平和を作る者として用いられるために、ここに集っているのです。この御影にも、この神戸にも、或いは私たち自身の心の中にも、マザーが指摘された「あなたの周辺のカルカッタ」があるのです。
 暗闇ばかりに見えるこの世ですが、その暗闇を太陽の光が毎日覆っているように、私たちの心の暗闇も神様の光で覆われています。
 「ALWAYS三丁目の夕陽」という映画があります。いわゆる昭和30年代のノスタルジーをたっぷり味わえる慰めの映画です。イケイケどんどんの高度成長期の裏陰には、幾多の労苦の涙が流されました。その涙を夕陽にぬぐわれた人も少なからずいたことでしょう。そうして夕日から慰めや癒しを受けた人々は、一方で昇る朝日から希望と励ましを受け取るのです。
 御影三丁目7−11。東神戸教会に集う私たちにはALWAYS三丁目の朝日です。今日もここに新しい朝がやって参りました。今年もこの神様の希望の光を浴びながら、ご一緒に歩んで参りましょう。

 天の神さま、新しい年が始まりました。この年もあなたに聞き従って、共々に歩む私たちとして下さい。信仰を固くして下さい。悩む時、迷う時、主の朝日を思い起こし、いち、にぃの、さんで押し出されますよう導いて下さい。

 
 
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