20160117  『 当日消印有効 』
 
 石川県に住む岡田(貴嗣)たかし君という小学生のドキュメント番組を忘れることができません。彼は生まれつき心臓の筋肉が弱ってゆく難病に侵されていました。その上に、脳梗塞を起こして、右半身不随、身体も動かない、言葉も出せないという事態を招きました。小学校のクラスメートたちが励ましの言葉をカセットテープに吹き込んで、お母さんが毎日それを聞かせたのだそうです。生きようという事を繰り返し語り続けるうちに、奇跡的に言葉が戻り、身体も回復して、学校に復帰することができました。
 学校に戻ったたかし君は、生まれて以来人に助けられてばかりいる自分を顧みて、今度は自分が何か人の役に立ちたいと強く思うようになりました。そして老人ホームで人形劇をやったり、お小遣いで学校のウサギにニンジンを買ってきたり、自分のできる精一杯の事を行うようになりました。
 でも良い時は余りにも短く、結局今から15年前のちょうど今頃、卒業式を目前にして心不全で天に召されてしまうのです。
 悲しくつらいドキュメントでした。にも拘らず、非常に感動的で、励ましと勇気を力強く与える番組でした。それは一重に、たかし君の真直ぐ生を見つめる生き方によりました。彼は病気が再発して、もはやみんなと一緒に動き回ることができなくなっても、一生懸命に自分の持ち場を考え続け、こう言うのです。
「人の役に立つっていう事は、人に何かしてあげることだけじゃなくて、生きているだけで良いんだよね。生きているだけで、人の役に立っているのと同じことなんだ。」
 驚かされました。「生きているだけで」という命のまことの意義を、わずか12歳の少年が捕えるとは。衝撃を受けました。生前、たかし君を支え続けたクラスメートの、特に仲が良かった6名の子どもたち、今それぞれ大人になっています。みなそれぞれ良き社会人として働いています。その彼らが一様に、たかし君と出会い、受けた事が大きいと語っているのです。たかし君は今も生きて彼らの心に刻み込まれているのでした。卒業式の折、無念にも先に召されたたかし君の事を思いつつ、涙をこらえて皆に「死ぬな」と言葉をかけた担任の先生の言葉が強烈でした。それはまさしく「生きよう」という呼びかけでした。私はこれを見て、私たちには「生きてゆく言葉」がどうしても必要なのだと思いました。生きてゆく言葉こそが、生きる力なのだと確信しました。渡辺和子さんは若い時に「あなたは宝石のような人だ」とある人から言われ、そのように生きようと決意されたと文章に書かれています。
 さて今日のテキストは、フィリポとナタナエルが弟子にされた時の話でした。小見出しに「フィリポとナタナエル、弟子となる」とある通りです。ただナタナエルは、このヨハネ福音書のみに登場する名前です。
 一つ前の段落ではアンドレとシモン・ペトロの二人が弟子にされたことが記されています。この二人とフィリポは、「来なさい」「私に従いなさい」とイエスに声をかけられて、すぐ応えたことになっています。12弟子のうちの徴税人マタイもそうでした。事実だったのでしょうし、すぐ従う、すぐ信じることは凄いことだと思いますけど、敢えて言えば、それはちょっと素直すぎないかと内心思います。
アンデレもイエスと出会って従い、兄弟のシモン・ペトロを連れて行ったと42節にあり、同じくフィリポもイエスと出会ってすぐ従い、それをナタナエルに伝えたというのです。44節にわざわざフィリポはアンデレとペトロの町ベトサイダの出身であった、と書かれていますから、この3人には同郷ということもあって、イエスにすぐ従うに共通する何かがあったのかもしれません。
 ところがナタナエルは違いました。フィリポはまず「私たちはモーセが律法に書き記し、預言者たちも書いている方に出合った」と彼に伝えたのです。それはアンデレが「私たちはメシアに出会った」とペトロに伝えたのと同じ意味であり、同じ思いだったでしょう。それは言わば信じた証しと言ってもいい言葉でした。けれどもナタナエルは、その証しよりも、フィリポの後の言葉に引っかかったのです。「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」という言葉です。
 短い箇所ですから、想像するしかありませんが、初めて出会ったイエスとフィリポですし、イエスがそこほど有名人であった訳がありません。初めて出会い、そこで互いに自己紹介を交わしたと想像して良いでしょう。当時かの地では父方の系図が大事にされましたから、フィリポは、「自分はナザレの出身で、父親はヨセフであり、名はイエスと言う」、そういうイエスの自己紹介を聞いたのだと思われます。これにフィリポは特別何も感じませんでした。でもナタナエルは感じたのです。イスラエルの一寒村に過ぎないナザレでした。大方、日々の生活の中で滅多に登場しない一地方に過ぎませんでした。そんな名もない田舎の出身者が、メシアなどとは到底思えなかったのです。それが何なのだ、と。「ナザレから何か良ものが出るだろうか」とは、ある意味大変正直な感想だったと言えます。
 ただそれは正直で、一方明白な疑いでした。差別的な疑いと言ってもいいかもしれません。或いはとんでもない失礼な言葉だったとも言えます。にも拘らず、イエスはナタナエルを誉めたのです。47節「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」この、偽りがないという部分を、岩波書店版聖書は「裏がない」と訳しています。正直に物言う態度が、いかにも裏がない人のように聞こえます。けれどそれが誠のイスラエル人ということには繋がらないのです。イエスの真意がよく分かりません。
 それを考えさせるのが実は次の2章の出来事のように思います。カナという場所で結婚式が行われ、イエスも出席したのです。お祝いの席で葡萄酒が足りなくなりました。それでイエスが水をぶどう酒に変えたというのです。そしてそれはイエスが初めて公で振るった奇跡の力ということになっています。推測ではありますが、ナタナエルもその結婚式と披露宴にも列席したに違いないと思うのです。
 イエスは、疑いを持ったナタナエルを誠のイスラエル人であり、偽りがないと誉めました。でも本当はナタナエルの言動から、イエスを差別するというより、むしろガリラヤの地を呪い、自分の人生を自虐的に受け、鬱屈としていたことをナタナエルが隠さなかったからではなかったかと想像します。
 イエスが婚礼の席で水から葡萄酒を作ったのは、もちろん基本的には新郎新婦を始め列席者のためだったでしょう。でもそこにはナタナエルもいた。ナタナエルに向けて力を振るわざるを得なかったし、示したかったイエスの思いがあったと思うのです。
 ただナタナエルが正直に疑いを隠さなかったから誉められたのではなく、鬱屈の茂垣の中に何とか生きようとして何ごとかを追い求め続けていたものをイエスは感じ取った。それが二人が出会う前の出来事に込められています。
 ナタナエルはいちじくの木の下で、イエスの様子を伺っていたに違いないのです。それを察知してイエスは「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われたのです。悩み、葛藤しつつ求めていた姿をイエスは受け取っていました。
 しかし誉められたナタナエルは驚いたでしょう。彼は「ラビ、あなたは神の子です。」と思わず応えました。自分の知らない時から見つめられていた、前から知られていた、凄いことだと感じ入ったからでしょう。
 ただしイエスにとって、その返答は適当ではありませんでした。確かにフィリポの話の前にナタナエルの存在に気づいていたイエスでした。これから生きてゆくための言葉を掛けられたのです。それが「この人には偽りがない」という言葉となりました。ちなみにナタナエルとは「神が与えたもう」という意味の名前です。
 ナタナエルの名前は、もう一度21章に登場します。そこでははっきりとガリラヤのカナ出身のナタナエルと書かれています。今日のテキストには特に書かれていませんが、彼もガリラヤの人だったのです。
 さてナタナエルだけではなく、私たちは自分で持とうとする時、この世的な価値観で持つものを評価します。ですからしばしば卑屈になったりします。でも本当は誰もが神から与えられるものによって、生かされる、これからを生きてゆく存在だと私は思っています。けれど、それを実感するのに鈍感な私たちは、しばしばその前に諦め、自ら切ってしまいます。もう、あかんわ。諦めるしかないわ。人間の弱さの故にそれは致し方ないのかもしれません。本当はそうではないのに、そのように反応してしまうことがいかにも多い私たちではないでしょうか。
 しかし神は違うのです。諦められません。神の別名は「諦めない」です。私たちの本心、本命を捕えてつながれるのです。今日この日この時が終わるまで、最善の導きと応答をなすために、最後まで全力を尽くされる方が神だと私は信じています。そういう存在を人は神と呼ぶのです。私たちが諦めたから、ああそう、お前は弱いね、それなら俺も知らんわ、で切るなら、それは神ではないのです。
神こそは明日に続く、これからを生きてゆく力を下さる方です。ですから言葉がかけられるのです。表面上一旦は自ら切りそうになったナタナエルでした。ナザレ人などもうええわ、関係ないし意味ないわ。でもそれを切らずに繋がれたのはイエスでした。「この人には偽りがない」と。神が与えたものを信じようとしていたナタナエルの本心を、イエスはしっかり捉まれたのです。
 岡田たかし君は若干12歳にして、自分を支えてくれる人たちへの感謝をもち、自分も何か役に立ちたいと願って、遂に「人は生きているだけで、役に立つのだ」と知りました。彼は短い人生の中で、最高に大きな恵みを得ました。その偽りのない、まっすぐで純真な思いが多くの人の心を打ちました。12歳ではありますが、12年の歳月を最後まで生き切ったと言っていいでしょう。
 イエスは今も私たちに呼びかけられるのです。今日を生きよう、これからを生きよう、と。今日が終わらないうちに諦めてはならない。例えあなたが諦めても私は諦めない、と。今日なすべきことを切ってはならない、当日の消印は最後まで有効なのだ、と。諦めない主が言われます。「もっと偉大な事をあなたは見ることになる。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。
ナタナエルに与えられた生きる力の言葉、その偉大な光景を共々見たいと思います。

 天の神さま、あなたが下さる言葉は、私たちがこれからを生きてゆく言葉です。それを力とし、今日も明日も生きてゆきたいのです。固く導いて下さい。

 
 
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