20160124 『こんなこといいな、できたらいいな!』 
                           
ヨハネによる福音書8:31〜36
 
 松岡修三さんのひめくりカレンダー、めちゃ面白いです。自由な人だなとつくづく思わされます。
 さて新聞の投書欄で以前、愛知県に住む女性から「どうしたの?静かな中学生」と題された文章がありました。この女性はその冬に、ある学習塾の冬期講習の講師をしたのです。若い頃ご自身が塾をやっていた経験をお持ちで、生徒たちの扱いには自信を持っていらっしゃって、さてどんないたずらがあるかと期待すらしておられたのです。
 ところが、1時間半の授業中、私語をする子はいなく、静かに聴き、こつこつ問題をやる。10分の休憩時間にはトイレにも行かず、各自持って来たゲームを行う。そして授業が終わると、迎えの車に即乗り込み、教室の誰とも会話することなく帰って行った、というのです。
 この先生、「無気味なものを感じた」と書かれていました。一年近く同じ空間で勉強したのに話しをしない、友達とコミュニケーションをとらない彼らに、未来への不安を感じたとありました。
 これを読んで、私も昔、予備校の講師をしていた体験上、ちょっと驚きました。静かに授業を聞くのは、本来そうあるべきことで、何ら問題ではないはずですが、行き過ぎのように思いました。もちろん、それは一塾の光景であって、すべてがそんな子どもたちばかりではないはずです。でも昨今のゲーム機やら携帯電話やらの話を聞くたび、子どもたちが一体何とつながっているのかを憂える訳です。
 岡山の友人から貰った年賀状の文言が心にすごく残っています。「地球崩壊の危機、格差社会の中で、まだ武力と市場原理が大切か!子どもたちよ、田舎で学び生(命)のみ得よ」、と結ばれていました。先の愛知県の女性の投書と重ね合わせて、本当にそうだと鮮やかに思った次第です。田舎で学び生命のみ得よ、それはこの世的なつながりを断念し、最も大事な命とつながることを大切にしようという呼びかけであると受け取りました。
 今日のテキストには非常に有名なイエスの言葉が記されていました。32節「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。大学の図書館など様々なところで用いられてきたよく知られている言葉です。何の疑問もなく、その通りだと思える言葉です。
 でもテキストを読んで見ると、その実現はそうそう簡単ではないことが分かります。31節にあるように、イエスはこの言葉を、自分を信じたユダヤ人たちに向かって言われたのです。一つ前の30節で、イエスの話を聞いた多くの人が、イエスを信じたとあって、その信じたユダヤ人たちに「真理はあなたたちを自由にする」と語られたイエスでした。
 けれども自由にされるどころか、彼らには何の事か意味が分かりませんでした。ですから「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません」と反論したのです。この言葉にこそ、彼らがつながっていたもの、大事にしていたものがはっきり表されています。それはユダヤ人として、ユダヤ民族として、もう当たり前すぎるほど当たり前であった、アブラハムの子孫という血筋へのつながりでありました。
 無論それは事実です。しかし実際にはイスラエルの歴史は様々な国々の支配の歴史であり、またイスラエルの神を忘れて別の神さまを信じた裏切りの歴史です。或いは神ならぬものを神として来た虚飾の歴史でもあります。それは罪の歴史と言って過言ではありませんし、捕らわれの歴史と言ってもおかしくありません。
 にも拘らず彼らはそのような歩みを一切忘れて、平然と血のつながりを誇示し、奴隷になったことはないと言い放ったのでした。ここにこそ、頑なな彼らの罪の姿がくまなく描かれていると言っていいでしょう。しかしそれは決して選民イスラエルを誇っていた彼らだけの問題ではなく、私たちにとっても同じ罪の姿であるのです。
 昨日「原発」の映画を宝塚教会で見て来ました。その中で、推進してきた或る議員が登場して、「今の生活水準を下げたくないので、これからも支持する」と語っていました。これだけの被害を見ても変わらないのです。染みついているのです。
 愛知県の塾の生徒たちの姿も、何もその塾の子どもたちだけの問題ではなく、また子どものみの問題でもありません。私たち大人にとっても同じ問題を映し出しているように思います。私たちもまた、この時代の中で、何につながって生きようとしているのか、それが問われているのです。
 全豪オープンテニスの錦織選手の試合をテレビで見てびっくりしました。日本人ファンだけが様々な日の丸グッズを用いて応援していました。異様でした。
 確かにこの世に生きる者として、この世のつながりの中で現実の中で一つ一つを選び、生きてゆかねばならない私たちです。でもそれが、これが大多数の意見だから、これが今最先端のものだから、これが現在最も価値があるものだから、そういう理由でこの世的な基準につながろうとするのなら、私たちはモノ言わずゲーム機や携帯メールに夢中になっている中学生たちと変らないのではないでしょうか。そしてそこからは決して自由になどなれないのではないでしょうか。
 石原吉郎という詩人が「断念と自由」という文章を書いています。
 「断念の直後、世界がふいに静まりかえるような沈黙のなかで、すべての輪郭が静止する。人は断念において、初めてこの輪郭の絶望的な明確さに直面し、明晰な姿勢にたどりつく、と私は考えます。
このように考えると、断念とは、ある局面へ追い詰められた時に、人が強いられる決断に似た決断であるよりは、むしろ人間が生きて行くうえでの基本的な姿勢なのではないか。そしてここまで来れば、生きるということは、そのままに断念と同義であり、断念の深さはそのままに生きる深さであり、その深さに照応するようにして信仰の深さがある、という逆説へは後一歩の近さであります。
最後に、人が断念において獲得するもの、それを最終的に「自由」と呼んでいいのではないか、と私は考えます。人が断念において初めて明晰でありうるのは、恐らくそのためであり、断念において信仰が獲得する自由という位相へと、結びついて行くのではないかと私は考えます。」
 すこぶる難しい文章ですが、戦後ソ連に逮捕され、懲役25年の判決が下されシベリアへ送られて絶望の8年を過ごした石原です。戦後やりたいことがいっぱいあったでしょうが、何もできない厳しい抑留生活を続け、特赦で1953年に帰って来ました。その石原が語っている断念とは、あきらめることや絶望することや忘れることではなく、この世的な価値基準につながること・むすばれることからの訣別を指しているのだと思います。武力や市場原理など命を生かすものどころか命を脅かすものからの明白な訣別をなすこと、それが断念です。力やお金や地位と結ばれる時、そこには果てしなき欲望の渦が沸き上がります。そこには決して自由や平安はありません。それどころか不自由と不安が常に交錯します。そういうものを断念し訣別する。そしてその代わりに、イエスが語られた神さまの愛の真理に結ばれること、そのところに真の自由がもたらされるということ、それが詩人の答えなのだと思うのです。
 今日の説教題は、子どもなら誰でも知っているアニメ・ドラえもんのテーマソングの一節です。こんなこといいな、できたらいいな!ドラえもんに登場する数々の機械や小道具は、子どもの夢を実現する素晴らしいものばかりです。私もどこでもドアがあったらどんなにいいかと思います。
 しかし、大人にもこんなこといいな、できたらいいなと切望する夢があります。それは例えば、世界から飢えがなくなったらいいな。戦争がなくなったらいいな。原発がなくなったらいいな。みんなが自由にモノを言い、互いの人生を認め合い、産まれて来た事を喜べる世界になったら、それこそどんなにいいかと思うのです。それを阻害しているのは武力です。市場原理です。或いは軽いこの世的価値観です。でもイエスを信じたユダヤ人たちもそれらを簡単には切れなかった。それらは余りにも巨大で強大な壁で、到底今は乗り越えられるとは思えない代物でしょう。
 それでも、イエスが語られたように、それらとのつながりから訣別し、主の愛の真理とつながるところからしか、何も始まらないのです。真理はあなたがたを自由にするとイエスは言われました。自由にされるところから、小さな一歩を繰り返し踏み出して、参りましょう。主の愛による自由の庭から、希望があふれるのだと信じます。

 天の神さま、主につながって、そこから一歩を踏み出せるよう導いて下さい。


 
 
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