20160207 『 腹が立っては戦はできぬ! 』 ヨハネによる福音書 6:1〜15
 
 私たちを真に導き、支えるものがあります。それは思いがけない時に、思いがけない形を通して与えられるものです。今日与えられたテキストに描かれていることは、実はそれです。いわゆる5000人の給食という有名な出来事。イエスがなした奇跡の物語では、御存じ唯一4つの福音書がすべて記録している出来事です。
 ただし、少しずつその記録の内容は違います。とりわけこのヨハネによる福音書は、1世紀頃書かれた、一番後の書物で、最初のマルコからは40年近く後になりますし、イエスが亡くなってからを考えれば70年近くも後の記録になる訳です。当然、書かれた時の時代状況も大きく変わります。もともとキリスト教への迫害は最初からありましたけれど、ヨハネ福音書の頃にははっきりとローマからの迫害が凄まじかった時代でもありました。
 ですからヨハネ福音書は、その迫害の中で表現を大変工夫したので、そのまま読んでしまうと、一番伝えたかった事が何も伝わらない事になりかねないのです。というのは、これは単に食事の話ではないからです。大勢の群集が押し寄せ、日が暮れ、食事の手配をしようもないところで、わずかの食べ物をイエスは奇跡の力で増やされた。それを食べてみんな腹いっぱいになって満足した。それでめでたしめでしという話ではないのです。
 もちろん、この出来事の元になった出来事は本当にあったのだろうと思います。しかしそれも、本当にイエスが食べ物の量を増やされ、危うく夕食を取れないと思われた危機を回避されたというおめでたい話ではなかったでしょう。他の3つの福音書に記録されている話も、やはり単なる食事の出来事ではなかったはずです。
 そして特にこのヨハネ福音書は違うのです。まず、病気を癒して欲しいと押し寄せた群集とは書かれていません。そうではなく、「イエスが病人たちになさったしるしを見たから、だから大勢の群集が後を追った」と1節にあるのです。いや、それは言葉のあやだ、病気を癒してもらうために後を追ったのは明白だと言われるかもしれません。そういう期待や要求は確かにあったでしょう。
 けれども、それなら、イエスが病人たちになさった力とか、癒しとか、出来事とか書けば良いのに、そうではなくて、「しるし」と書かれているのです。しかも他の福音書では実際その癒しを行ったとあるのに、ヨハネでは何も書かれていません。それどころか押し寄せた群集たちをまるで避けるかのように、3節、「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」と続くのです。
 ガリラヤ湖の回りに目立った山はありません。小高い丘くらいはあったでしょうが、通常イエスが山に登られたのは、それはそこで神さまと対話をする、祈りをささげるための特別な行いを意味するのです。その行為がわざわざ山のないガリラヤ湖の周辺で書かれているのです。
 更に、このガリラヤ湖周辺の町であるベトサイダの出身だったフィリポ一人を登場ささせて、「群集たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねています。弟子たちみんなにどうにかさせようとした他の福音書とは、明らかに違うのです。
 このフィリポの登場は、彼がベトサイダ出身であって、周辺の事を良く知っている人、パンを売っている店や場所も当然分かるだろうという推定のもとに立つ質問だったのです。しかも例え場所を知っていたとしても、帰って来る返答が「不可能」というものであることも初めから想定されていました。
 6節に「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」とわざわざあります。何だかイエスが意地悪をしているようですが、そうではなく、フィリポから「現実の量に注目する限り、不可能」との返答を導くための作戦でした。
 その狙いはぴたり当たりました。彼は「少しずつ食べるとしても、200デナリオン分のパンでも足りない」と答えたのです。1デナリオンが当時の一般的労働者の一日分の給料でしたから、分かりやすくするために現在で1万円としたら、200万円分のパンと言う事になります。仮に6枚切り250円の食パンを買うとして、8000個ということです。膨大な量のパンです。で、8000個では足りないというのです。そこに5000人の人がいたとありますが、それは成人男性だけの数なので、子どもや女性を入れたら、きっと軽く1万人以上の人がいたのだろうと思われます。それなら確かに8000個では足りない計算となります。
 更に、このフィリポの返答を聞いて、ペトロの兄弟アンデレが言ったのです。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」このアンデレの登場は、他の福音書にはやはりありません。また他の3つでは、群集の中から食べ物を持っている者を探した形になっているのに、ヨハネではどうも自分から申し出たと言うより、アンデレがたまたま少年を発見したような形となっています。その上に、200デナリオン分のパンでも足りないと答えるフィリポに対して、たかがパン5つでは足しになるはずがない、ちっとも補完の言葉になっていない、要するに無理、不可能ということを言わせたいためのアンデレの登場だったのだと思われます。
 けれどもイエスは、この二人の弟子の返答に何ら臆することも動ずることもなく、パンと魚を分けたのです。それも無理、不可能を強く主張した弟子と違って、確かに見た目、量的にはわずか5つにしか見えないパンと魚を感謝を捧げてから、分けられたのでした。この食事を受け人々が満腹したばかりか、残ったパンくずで12のかごがいっぱいになった。その「しるし」を見て、群集たちは「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったというのです。ここに再び登場する「しるし」と言う言葉、そして群集たちの告白、これも他の3つの福音書にない記述です。ここに、この物語が、ただ単純な食事の出来事ではないことが表されています。量の問題ではなかったのです。そうではなく、人間が陥り易い見た目の問題、量の問題に一切構われることなく、それを感謝し、分けられたイエスの行為が、人々の心を打ち、満たした、その不思議な力の導きが描かれているのです。
 にも関わらず、この食事を受け、満ちたはずの群集たちが実の所何も分かっていなかった事を、これもヨハネだけが伝えようとしています。それが最後の15節です。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」
 「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と告白したはずの群集でした。ところがそれは、わずかな食べ物が増やされたという「量」をのみ見て、それに囚われた故の告白なのでした。しかもその力を振るったイエスを「王様にするため連れて行こう」と画策したのでした。
 悲しい人間の現実です。イエスからは自分のいったい何を見ていたのか、腹を立てておかしくない群衆の反応だったでしょう。余りにもずれていたこの世的行動だったと言わざるを得ません。イエスが一人で山に退かれたとありますが、大阪人だったら、きっと「アホちゃうか!」としたうちする場面でしょう。何も分かってない人々でした。
 5年前、あの東日本大震災の夜。何とか高台に逃れた人々は、一切の家財を失い、肉親を奪われ、疲れ切った心と体を引きずりながら、眠れぬ夜を過ごしました。地震で停電し、また津波によって街が壊滅したことで、皮肉な事に満天の夜空が広がっているのを被災者たちは一様に眺めました。そして方やすべてを根こそぎにしてしまった自然の力がある一方で、その夜空の美しさに心が慰められたと言うのです。それまで気づかなかったものの中に生かされていることを知ったと言うのです。
 常識的に考えればパン5つで5000人を満足させられるはずはありません。しかしそもそもこの記録は、数や量を問題にしたものではないのです。思いがけない不思議な力に支えられ、導かれて今があり、生かされている。人間の想像やこの世の論理だけで生きているのではなく、それを超えるものに包まれている。それが今日のテキストの最大の背景なのでした。イエスは腹を立てることなく淡々と伝えたのです。間違えることなく受け取りたいと思います。


 
 
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