20160214 『 惨敗をもっとおいしく。 』 マタイによる福音書 4:1〜11
 
 山北宣久前教団議長が、十年前の第35回教団総会で、万博問題など紛争が続いた過去40年の教団の歴史を振り返って、それは荒れ野の40年だったという声明を発表しました。この歴史認識を巡って、賛否両論様々な意見が十年経っても未だに渦巻いています。紛争の結果、この40年の間は教勢が低下する一方だったとして、その通りだという人たちもいれば、教勢だけを見るのではなくて、40年の間に与えられた課題と格闘しながら得られた糧は決して小さいものではなく、それ故にこの40年を荒れ野という消極的な一言で括れるものではないとする人たちも少なくありません。私もその一人です。
 さて今朝与えられたテキストは、イエスがその伝道に当たって、まず荒れ野に出向き、悪魔の誘惑を受けられた箇所です。今年は先週の水曜日からレントに入りました。改めて「荒れ野」について考えて見たいと思います。
 イエスが出向かれた「荒れ野」がどこであるのか、定かではありません。荒れ野という言葉から私たちが想像するのは、人里離れた、草木も生えていないような荒涼とした場所です。はっきりした場所は分かりませんが、恐らくイエスはそのようなところにわざわざ出向かれたのです。
 そしてそこで何をされたかと言うと、断食をなさったというのです。今日のテキストでまず不思議に思されるのは、そこです。断食をすることは、当時珍しいことではありませんでした。悔い改めのために、或いは祈るために、食事を絶ってそれに集中する訳です。ですから、それは何も荒れ野でなければならない理由は全くない訳です。実際、多くの人たちがそれぞれの場所において、断食を実践しておりました。
 ここに一つのポイントがあるのです。断食はどこでもできる、町でもできる、しかしそうであれば、通常他者に見える行いなのです。だから例えば、熱心党と呼ばれる一群の人々は、自分たちの信仰の固さを他者に見せるため、そして賞賛を得るために断食をしたのです。
 そうではなく、イエスは一人で荒れ野に向われ、そこで断食をなさった。それは誰の目を意識することもない、また何の制約もない、ただイエス個人の自由な出来事でした。
 そしてもう一つ、イエス個人の自由な出来事ではあるけれども、1節にあるように「霊」に導かれて荒れ野へ行かれた訳で、何かこの世的・人間的な目的を持って自ら出かけられたと言うよりは、そうしなければならない大きな力を感じ、惹かれ、敢えてそこへ出かけられたということだったのです。
 それは一にも二にもなく、徹底的に「一人であること」「一人となること」が必要だったからではないか、そう推測します。誰かに言われてとか、何かの目的達成のためとかではなかったのです。
「一人であること」は、強さを求めるためのものではないと考えます。この世のしがらみから離れて、冷静・客観的に自分を見ることができますが、そこではっきり知らされることとは、私たちは一人の時、弱いという現実だと思うのです。断食をなさったのも、強くなるための修行、自己鍛錬のためなどではなく、「一人であること」を見つめるため、より一層そのような「弱さ」の状況へ身を置かれるためであったと思われます。
「悪魔から誘惑を受けるため」にそうされたと、冒頭にはっきりと書かれています。人が誘惑を受けるとすれば、それは一人の時、孤独の時、弱い時であるに違いありません。
 確かに私たちは、誰かと共にいる時に、或いは満たされている時に、ネガティブな事を考えたり、絶望的になったりは、まずしません。ガンを患った或る方は、見舞客に「大丈夫」と務めて笑顔で答えていたけれど、皆が帰って一人になった途端、とてつもない恐怖と不安に襲われたと告白されました。極めて当然の変化です。
 そうして人は自分は一人だと感じ、孤独感に苛まれる時、大概良からぬことごとを考え出します。否定的になりがちです。何でもいいから頼りたくもなりますし、すがりたくなります。他者を羨んだり、ねたんだりもするでしょう。絶望の思いにも陥りますし、逆にそこからもがいて無理やり現状を不都合な真実として顧みないで、虚構の世界を作り出そうともするのです。
 伝道の業の最初に、イエスはそのような場所へ敢えて出かけられました。それは伝道の開始に当たって、そういう体験をすることが必要だったからでは「ない」と思うのです。そうではなく、イエスは人間の孤独を既に十分にご存知であって、改めて「一人であることの弱さ」を確認するためであったからだと思います。作り物、演技ではない、自分自身との真剣な対決がそこにありました。
 そして事実、断食を終え、心身共に十分弱った時に満を持して悪魔が登場するのです。私たちは、なぜこの出来事が伝道開始に当たって記されているのかを思う時、それは無事悪魔に打ち勝った事を伝えるためでも、だからこそ救い主だと言われるにふさわしい強さを示すためでもなかったと知らされるのです。
 それは、こうした一人の弱さに追い討ちをかける悪魔の登場が、たとえ救い主であっても与えられる事の普遍性をまずは伝えるためではなかったかと思うのです。これはまさにイエスの内部に沸き起こった誘惑の思いの数々であり、告白でありました。
 この出来事はイエスが一人で体験なさった事です。誰かがついて行って、一部始終を報告したのではありません。誰も見ていないのです。にも関わらず、この出来事が記されているのは、これをイエス自身が後に語られたからに他ならないでしょう。イエスは、自分も人が一人でいる事の弱さを実感し痛感された、その心の端を弟子たちに、或いは人々に語り聞かせたのだと想像するのです。
 そして、この危機的状況をなんとか乗り越える事ができたのは、イエスの精神力が人並みはずれて強かった、人間的に偉かったからではなく、その弱さの渦中で、決して神さまから離れなかったからだということを、伝えたかったからだと思うのです。
悪魔は3つの、極めて人間にとって魅力的な誘惑をなしました。それに対して、一言で言えば、イエスはそのすべてに神さまと繋がる事を通して、乗り越えたのです。乗り越えたと言えば、少しかっこいいですが、辛辣に言えば、神の助けなしに乗り越えることは決してできなかったのです。
悪魔の提示した即物的なもの、権力や名誉など、それらは命そのものにつながるものではありませんでした。弱った時、孤独な時、私たちはふと命のないものに惹かれることがあるのです。悪魔の誘惑とは、その事を指すのです。そうではなく神さまと繋がるとは、命に繋がる事を意味します。そしてそれは、救い主イエスだからこそできたのだという事ではなくて、自分はこれからもそうする、願わくはあなたがたもそうして欲しいというお手本であり、そうできるという示しだったのだと思うのです。悪魔との対決というより、私たちへのイエスの正直な思いがここに告白・紹介されたのでした。
 考えてみれば、例え、周囲に大勢の人がいたとしても、その存在や立場や心を理解されない時、人は孤独です。多くのモノに囲まれ、十分な環境を持っていたとしても、それが本当にその人を支えるものでないなら、人は一人です。そこに喜びはありません。その意味で、荒れ野とは、ただ場所を特定しないでしょう。誰の心のうちにも荒れ野はある。人里離れた、うら寂しい場所でなくても、むしろ大勢の人がいて、きらびやかな場所にいたとしても、寒々しい荒れ野がこの世にはあちこちに点在するのです。
ルカによる福音書では、このあと悪魔は一時イエスを離れたとあります。一時です。つまり再び現れたのです。事実、この後十字架の死に至るまで、イエスは幾度人の世の荒れ野をさ迷い、悪魔の誘惑を受け続けたことでしょうか。福音書には、たびたびイエスが一人で祈られた出来事が記されています。5000人の給食という感動の出来事の後にも、それはありました。一部の人々が給食の出来事の真意を汲み取らず、イエスをこの世の王として祭り上げようとしたからでした。そこにも荒れ野がありました。誘惑がありました。しかしイエスは繰り返し神さまに聞き、従って乗り越えられたのでした。
 イエスの体験は、まさに私たちの人生の縮図です。人の世の荒れ野で、更なる悪魔の誘惑が与えられるものです。打ち勝つことは困難です。むしろ惨敗するのです。しかしその誘惑を、勝てないまでも乗り越える術をイエスは与えて下さいました。ひたすら神さまにつながることです。もちろん、私たちの努力でそうするのではありません。つながっていて下さる方は神さまです。その事を忘れない事です。
弱い時、ふっとつながっているものを忘れ、消えそうになることがあります。その時、命に繋がらないものではなく、命に繋がるモノを思い起こしたいと思います。イエスの十字架は、実に、ゴルゴタの丘という名の、私たちの心の荒れ野に建てられたのです。十字架はイエスの、この世における惨敗の象徴でした。乾杯などと口が裂けても言えない痛ましい死でした。でもそこには乾杯を超える深い意味が込められておりました。


 天の神さま、私たちの弱さを固く補い守って下さるのは、あなたです。あなたに繋がって、命を喜ぶ者として下さい。


 
 
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