20160221 『 見ザルの心得 』 ヨハネによる福音書 9:13〜41
 
序.見ザルの心得
 今回、説教題としてつけた「見ザル」というのは勿論、あの「見ザル、言わザル、聞かザル」の内の「見ザル」ということになる訳ですが、そのことわざでも指摘されていますように、やはりわたしたちは、目に見えるものに惑わされるということが非常に多くある訳です。
 そして、今日のこのヨハネ福音書の箇所もまた、目に見えるものと目に見えない真理との関係について語っている箇所なのです。

1. ヨハネ福音書における「見える」の意味
 では、今日のお話で、「見える」という言葉が一体どういう意味を持っているか、というと、そこには二つの意味があるのです
 一つには、文字通り「肉体の目」「肉の目で見る」ということ。そしてそこには、その肉体の目で見ることによって、人間があれこれと考えて判断する、そのことも含まれているのです。人間が肉体の目で見て、様々に考え、判断する、これが一つ目の「見える」ということです。
 そして二つ目の「見える」というのは、そういう肉体の目で見ることとは全く別に、イエスという方が一体誰であるのかが分かるようになる、これを今日のお話では「見える」と言っている訳です。
 つまりこのお話では、まず目の不自由だった人がイエスによる癒しを受けて、その肉体の目が見えるようになる、そしてその事をきっかけとしてその人が、このイエスとは一体誰なのかを考え始める、そして遂には、このイエスとは一体誰なのかが、その人に見えるようになるということです。
 そこでまず注目したいのが、17節に出て来るファリサイ派の人と、この目が見えるようになった人とのやりとりです。17節「そこで、人々は盲人であった人に再び言った。『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』彼は『あの方は預言者です』と言った。」このように、この目が見えるようになった人は、イエスのことを預言者だと考えたのです。
 そしてその理由が記されているのが、32節以下です。32節「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです。」
 このようにこの人は、自分が見えなかった目をイエスによって開いてもらったことをきっかけに、神のもとから来た人でないならば、そんなことは出来ないはずだ、そう考えたのです。そうやってこの人は、自分に起った出来事をよく見、よく考えた結果、イエスは預言者だと判断した訳です。
 ところが今日のお話では、そこで話は終わりません。

2.「見ること」から「信じること」へ
 この目が開かれた人は、その後、ユダヤ教の共同体から追い出されて、そこでイエスと出会うのですが、その時にイエスが彼にこのように言うのです。35節「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。」
 今もお話しましたように、この目の不自由だった人はイエスによって癒されて、その出来事から「このイエスという方は預言者だ」と考えたのですが、しかし、それ以上の理解には至らなかったのです。そして、そういうところにおいて、イエスはその人に「あなたは信じるか」と問うた訳です。目で見て、頭で理解するだけならば、「イエスは預言者」という以上の答えは出て来ない。ではどうしたら良いかというと、イエスはそこで「信じる」ということが必要なのだ、と言われたのです。

2. 知解を求める信仰
 皆さんは「知解を求める信仰」という言葉をお聞きになったことがおありでしょうか。
 これはアウグスティヌス等が言っていることなのですけれども、信仰というものには、神様に対する問いが含まれているというのです。つまり、神様を信じるということには、神様について知りたいという人間の思いが含まれている。でも神様についてよく考えても分からないから、人間は神様を信じるしかない。でも信じたから終わりかというと、そうではなくて、今度は、人間は信じた神様をより深く知りたい、理解したいと思う。でも人間の理性の力では、神様の全ては理解出来ない、だからまた信じるということが必要なのです。
 このように、人間は神様を信じながら、神様について思索し、思索しながらまた神様を信じる、これが大切だと言うのです。
 わたしたちでもそうではないでしょうか。自分は神様を信じた、だからもう後は、神様については何も知らなくて良いとは決して思わない。そうではなくて、自分が信じている神様についてもっと知ろうとして、聖書を読んだり、キリスト教関係の本を読んだりする。でもやっぱりよく分からないから、結局信じるしかない、ということになる。
 このように、神様を信じることと神様について考え、理解することというのは、分かちがたく結びついているのです。でもその時に大切なことは何かというと、それらのことが、まず信じることから始まる、ということです。信じなければなにも始まらないのです。
 今日のお話で、この目が見えるようになった人にイエスが求められたのも、まさにそのことだったのです。
 「あなたはわたしを信じるのか」そしてこの人が「信じます」と答えた、まさにその時に、この人の心の目は開いたのです。そしてこの人は、この方イエスという方こそが自分にとっての救い主であることを彼はその時から理解していったのです。

3. イエス・キリストを信じるとは〜大谷さんの言葉から考える〜
 イエスという人が一体どういう人なのか、ということについては、色々な人がいろんな本を書いています。「日本人のイエス観」ということで、この国でイエスがどのような人物として人々に受け入れられてきたか、ということをまとめているような本もあります。
 しかしそのようにして、イエスとは一体どういう人なのかということを考えることと、イエスを信じるということは、全く違う事柄です。
 では、イエスを信じる、イエスをキリストと信じる、ということは、一体どういうことなのでしょうか。
 関西労働者伝道委員会の専任者である大谷隆夫牧師が、2011年に不当逮捕された、ということは皆さんもよくご存じのことだと思います。それは、デモによって選挙の投票を妨害した威力業務妨害だということによる、逮捕と起訴でした。
 このことに関わって裁判が開かれ、わたしも傍聴に行きましたが、その裁判における陳述の中で、大谷さんはこのようなことを言ったのです。「今回の投票所での行動も含めて、釜ヶ崎の日雇い労働者に関わるわたしの働きというのは、イエス・キリストに従う信仰によるものです。」大谷さんはその法廷ではっきりそう言われ、それを聞いている者一同、特に教会関係者は非常に感動したのです
 イエス・キリストに従う信仰によって自分は釜ヶ崎における活動をしているのだ、この大谷さんの言葉にも表れているように、イエス・キリストを信じるということは、ただ漠然と「いわしの頭も信心から」というようにして、イエスを信じるということでは決してありません。そうではなくて、イエス・キリストを信じるとは、そのイエスの語られた言葉を聴き、為さった行いを見、そしてそのイエスに信頼して、そのイエスに従って行く、ということです。
 ただ傍観者としてイエスをはたから見て、「イエスとはこんな人です」とか、「イエスのこんな言葉が素晴らしい」とか、頭で考えているのではなくて、そのイエスに信頼して、イエスに従って行く。そしてそうやってイエスを信じて従って行った時に、はじめてわたしたちには、イエスという方が分かって来る。イエスという方がどういう方であるのか、そしてそのイエスの愛というのがどういうものであるのか、そういうことが分かって来るのです。
 勿論それは、わたしたちがイエスのようになれるとか、わたしたちにイエスの全てが分かるとか、そんなことではありません。わたしたちは依然として欠けた者だし、いろんな出来事に出会って、どうしたら良いのか、途方に暮れることも多い弱い者です。
 だけれども、そういう自分に起る全てのことを良く見て、理解して、納得してからやりましょう、というのではなくて、行く先はまだよくは分からないけれども、イエスに信頼して、一歩を踏み出して行く。
 そうやって、イエス・キリストという光に照らされて、それに信頼しながら、小さな一歩を踏み出し続けて行く、これがわたしたちの信仰の歩みではないでしょうか。
 「見ないのに信じる者は幸いである」、そう言われたイエスの言葉を受けとめながら、わたしたちもイエスに従う小さな一歩を踏み出して行く者でありたいと思います。


 
 
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