20160228 『 家族はつらいよ 』 ヨハネによる福音書 6:60〜71
 
 先日、フクシマ・神戸子どもプログラムの委員会があった折、ジェフリー・メンセンディーク先生が言われました。「自分はレントの期間に限らず、一生お寿司を食べないと決めている。お寿司が大好きなんだけど、あの3・11の大震災以来、それを食べてしまったらどんどん自分が堕落してしまいそうで、他のものはともかくお寿司だけは食べないのです。」
 その後晩御飯食べに行ったら、確かにお寿司は食べられないのです。これは単に我慢とか絶つという一時の決心とかではなく、震災後の彼の生き方そのもので、心を打たれました。ちなみに一緒に晩御飯に行った他の方々それぞれ、レントの間は大好きなこれを食べないことにしている、と言われて、最初店を選ぶのが大変でした。
 私などは、とても何かを絶つことなどできないというか、始めから頑張る気にもならないで、それはそれで問題だと思いながらも、「レントは何かを絶つための期間ではない、むしろ何もできない己の弱さを再確認する時なのだ」などと分かったような居直りの状態を過ごしています。
 でも改めて6週間のレントは長いな〜と思うのです。今週でようやく半分終えようとしていますが、先はまだまだです。居直ってばかりいないで、少しでも何かすべきかなとも思います。皆さんはいかがですか?
 さて、今日読んだ聖書箇所の次の段落、7章冒頭に、イエスの兄弟たちがイエスのところに来て言ったという文句が記されています。兄弟たちとはすなわち弟たちのことです。滅多に登場しない人物たちです。
 エルサレムでは仮庵のお祭りが近づいていました。ユダヤ三大祭りの一つです。都から遠く離れたガリラヤでも、この祭りに参加しようと準備している人々も少なからずいたことでしょう。イエスの弟たちがそのメンバーの一員でした。彼らの頭にはこれから行かんとするエルサレムの華やかなお祭りに対する期待感でいっぱいなのですけど、それに比べてわが長男たるイエスの行動がみすぼらしくてならないのでした。
 イエスの弟たちは、長男であるイエスの出自について、自分たちとは父親が違うことを知っていたと推測します。これも推測ですが、父ヨセフが生きているうちは、それでも長男として父を助け、家庭を守る責任を果たしていたでしょうから、大きな問題はなかったのです。
 しかし父亡き後、長男たるイエスは、その責任をいわば放棄して、一種徒党を組んで訳の分からない宗教活動を開始したのです。それは家族にとって一大問題だったことは想像するに難くありません。ガリラヤのような田舎の一地方にあって、それは恥でもあったでしょうし、やっかい者でもあったでしょう。せめて都に上って、堂々と名を挙げることをしたらどうだ?そんな不平や不満が渦巻いていたに違いないのです。そこで7章の3節にこうあります。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」、でなければ、あんたのような長男を持った私ら家族はつらいよ、という訳です。
 「男はつらいよ」という映画では、主人公寅さんは家族にとって常に心配の種でした。寅さんの引き起こす行動によって、しょっちゅう大騒動になるのでした。にも関わらず、家族の誰もが寅さんを愛していて、大事に思っていて、大変なんだけど見捨てない、面倒だけど関わり続けるのです。
 ところがイエスの場合はそうではありませんでした。かつて洗礼を受けた時、私は「あんたは弱いから、そういうもんにすがるのや」と家族から言われました。今なら「おっしゃる通りです」と受け止めることが出来ますが、当時は「違う!そうじゃない!」と内心怒りと反感を覚えたものです。イエスの場合はそれともまた違いますけれど、弟たちの反応に、内心はやっぱり限りない寂しさを抱いたことでしょう。家族は彼に筋違いの「力強さ」を求めておりました。家族だからこそのやっかいな存在でした。イエスの孤独の深さを思います。
 そして今日の箇所に戻るのです。12弟子のみならず、イエスの言動に導かれ、既に大勢の人々が自ら弟子と称して従っておりました。6章の冒頭にはあの5000人の給食の出来事が記されています。ほとんど何もないところで、イエスは5000人もの人たちを満腹に導き満足させる力を振るわれた、その噂は瞬く間にガリラヤ中に知れ渡り、更なる現実の「パンの力」を求めて人々が殺到したのでした。
 そんな彼らにイエスは、「パンとは自分のことなのだ」「私は命のパンである」というメッセージをカファルナウムの会堂でなしたのです。言うまでもなく、それは比喩を用いたメッセージであって、イエス自身がパンそのものであろうはずはありません。分かり切ったことでした。けれども人々の求め、望みは現実世界の「力強さ」にありました。つまり、イエスの弟たちの願いと何ら変わらなかったのです。イエスは自分が「命のパンだ」と繰り返し語りました。ではどうやって食べるのだ?という勘違いの返答が記録されていますが、それは人々の誤った希望を表現している下りに過ぎません。彼らも分かっていた、しかし自分たちの望みと違うイエスに対する失望がそこに表されているのです。
 さあ、この人物は期待はずれなのだ、と悟った人々は、直ちに行動しました。66節です。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」
イエスの心中、胸中、察するに余りあるものがあります。実にうら寂しい光景です。イエスは、寂しさを抱えつつそこに残った12弟子に問うのです。「あなたがたも離れて行きたいか」。
 シモン・ペトロが懸命に応えました。「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 このペトロの返答をどう捉えれば良いでしょう。さすがペトロは最後の砦、せめてもの反応という他はないのかもしれません。少なくとも彼は、イエスの命のパン発言を、永遠の命の言葉として受け取っておりました。イエスの最も身近にいた者、いわば身内として最低限の返答だったと思います。
 けれどもその12弟子から明確な裏切り者が出ることをイエスは読んでいました。それだけでなく、現実には最終的に皆離れて行くことをも察知しておりました。64節、「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちが誰であるか、またご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである」とあります。これを口にせねばならないとは、それこそはらわたの痛む思いであったことでしょう。しかもこれらの弟子を、ユダも含めて、最後まで導いたイエスでした。血縁に勝る関係を大切にされたのです。
 山田洋二監督は、「男はつらいよ」という映画を通して、男だけつらいんじゃない、みんなつらいけどでも大丈夫、という世界を描きました。シリーズが終わって20年、来月12日から新作「家族はつらいよ」が封切されます。そこではいかなる家族像が描かれるのでしょうか。
 英語で家族をファミリーと言います。これはファミリアというラテン語から来た単語です。ファミリアのもともとの意味は「仕える者」という意味でした。ヨハネ福音書以外の3つの福音書、共観福音書には、イエスのもとを母マリヤと兄弟姉妹が訪れた時の記事が記録されています。家族が来たという知らせに対して、例えばマタイ福音書では、イエスは、弟子たちの方を指していわれた。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。だれでもわたしの天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12:50)と記されています。まさに仕える者です。
 私たちも信仰でつながれたイエスの家族、神の家族です。自分でそうなったのではありません。弟子たち同様離れてしまうこともある情けない家族です。それでもつないで下さるのはイエスです。それだけは忘れたくない。そうして「仕える者」でありたいと思うのです。

 天の神さま、レントの時でさえ不十分な歩みしかできない私たちです。ざんげします。しかしどうか主の家族の一員として、仕えることができますよう。用いて下さいますよう。


 
 
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