20160306 『 幸せならサイドに示そうよ! 』 ヨハネによる福音書 12:1〜8
 
 大阪クリスチャンセンター(OCC)の2階大集会室の入り口付近に一枚の大きな絵が飾ってあります。白い服を着た長い髪の一人の女性が壷を両手で持って跪いているのです。その背後に何やら厳しい顔つきをした4〜5名の男性が立ち並んでいる、そういう絵です。
 どなたの絵なのか描かれたのか、知りません。でもその絵こそは、今日のテキストの出来事の絵であるのです。女性は、背後から険しい視線を注がれていることに何ら臆せず関せず、ただまっすぐ目の前を向いているのです。でも何を見つめているのか、それは描かれていないのです。今日のテキストの出来事を知らなかったら、彼女が何を見つめているか分からないでしょう。でも幸い、私たちはそれがイエスであると分かっているので、そこに描かれていなくても、心に浮かぶ訳です。この絵がそこに飾られているのは、OCCの思いかと想像しました。OCCの部屋や備品など主のご用のために存分に用いていただきたいということかなと受け取りました。
 さて、この女性マリアが持っていたのは香油の壷でした。当時、非常に純粋で、それだけに大変、高価なことで知られていたナルドの香油を持って来たのです。エルサレム近くのベタニヤという村に彼女の家がありました。この村はエルサレムからは15スタディオン離れていたと別の箇所に記されていますが、それはおよそ3キロほどの距離です。ここにマリアと共に、姉妹マルタと兄弟のラザロが住んでいました。
 イエスはこの家庭を大切にして、しばしば立ち寄られたのです。でも今回の訪問は、ちょっとそれまでと事情が違いました。この後エルサレムに入られ、そして遂に逮捕され、十字架刑に処される直前の訪問で、つまり最後の訪問であったのです。
 もちろん、その緊急性をマリアたちがどこまで自覚していたか、明らかではありません。いよいよご自分の運命を定めて覚悟を決めておられたのは、イエス一人であって、予告は繰り返しなさいましたが、弟子たちにも分かっていないことでした。
 では何故、マリアは高価なナルドの香油を持って来たのか。1リトラとありますが、それはおよそ326グラム、わずかな量に過ぎません。でもそれは売れば300デナリオン、当時の労働者の300日分の価値があるものでした。今で言えば300万円はするものすごく高い香油だったのです。極めて貴重な代物でした。
 それをマリアは惜しげもなく割って注ぎ出し、更に自分の髪を使って、イエスの足を拭ったというのです。旅人や来客があった時、疲れた足、また汚れた足を洗ってもてなすのは、当時の礼儀でした。しかし、高価な香油を使い、自分の髪でそれを行うとは、幾ら親しい仲であっても通常あり得ないことだったのです。
 その訳は、一つ前の11章に記されています。兄弟のラザロが重い病の結果、亡くなったというのです。知らせを聞いてイエスたちが駆けつけた時には、既に墓に埋葬されて4日が経っておりました。もはやどうにもならない現実でした。
 悲しみにくれるマリアの姿を見て、この時イエスも泣いた、と記されています。それから墓に出かけて行って、ラザロを生き返らせられたのです。このことが科学的にどうなのかという事はともかくとして、聖書に記されているイエスの奇跡の記録としては、最大級の出来事だったと思います。亡くなって4日も経ってから、このことを行われたのですから。
 11章を読むと、ラザロの急を知らされたイエスは、その時既に命を狙われていて、その危険があり、弟子たちは引き止めたのです。でも11節にあるように、「私たちの友ラザロが眠っている。私は彼を起こしに行く」と語られ、出かけられたのでした。
 そして、このラザロに対する奇跡が、いよいよ祭司長たちやファリサイ派の人々の心を動かしました。このような凄い働きをする者を放っておいては、自分たちの立場がなくなると不安に思ったからです。そして遂にはっきりと決意しました。11章の53節にこうあります。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。
 イエスはそれを察知して、いち早くベタニヤを抜け出し、賢く、密かに旅を続けました。しかし当局の決意はもはや公のものとなりました。11章最後の57節にありますが、彼らは逮捕するために、イエスの居所が分かれば届け出よと、エルサレムで命令を出したのです。言わば、お尋ね者とされたのです。
 以上のような出来事が少し前に起こって、その上で再びイエスたちはこのベタニヤのマリアたちの家を訪問された訳でした。まさに危険を冒しての再訪問だったと言えます。そこには奇跡的に生き返ったラザロが当然おりました。祭司長たちが出した命令は、エルサレムからわずかしか離れていないベタニアには当然届いていたに違いありません。マリアたちからすれば、兄弟を生き返らせて下さった命の恩人です。そのイエスが、逮捕の危険を犯して、再び訪ねて下さったのです。感謝以外の何ものでもありません。どんなお礼であっても、足りない思いでいっぱいだったことでしょう。これこそが、高価な香油を惜しげもなく用い、自分の髪を使ってまでも、イエスの足を拭ったマリアの行動を促した理由でした。
 いいとか悪いとかではないのです。もったいないという問題でもないのです。銭金の話ではないのです。ただただ精一杯の感謝を思いを表した、それがマリアの行動でした。ラザロやマルタとて、何ら異論のない行為だったでしょう。命を救われた者つまり命がなかったかもしれない者にとって、もはやこの世の価値は意味を持たないのです。よしんば持つとして、むしろ300万円でも惜しくない、そのような行為であったのです。
 イエスは「私たちの友ラザロを起こしに行こう」と弟子たちに語られました。イエス自身がこの3人の兄弟姉妹を愛しておられたのは事実です。ですが、その交わりを通して、弟子たちもまたこの3兄弟と深いつながりを与えられて来たのです。ですから主は「私の友」ではなく「私たちの友」と言われたのです。
 これは想像に過ぎませんが、マリアたちがとんでもなくお金持ちだったとは思われません。何本もナルドの香油を持っているようなお金持ちだったら、かえってその1本の価値はなかったでしょう。恐らくは彼女らにとってなけなしの財産とでも言うべき、大切な1本の香油だったろうと思うのです。それをも惜しまない交わりが彼らに育まれていたのです。
 にも拘らず、このマリアたちの心情、この場の空気を全く読めない者がおりました。ヨハネではそれは後に裏切りを働くユダが物申したことになっています。しかし同じ出来事が記されているマタイ福音書では、弟子たちとなっていますし、マルコ福音書ではそこにいた人の何人かが憤慨して互いに言った、とありますから、裏切り者ユダ一人だけだったのではなくて、少なくとも複数の弟子がマリアの行為を非難したのだと思われます。「売って貧しい人々に施すべきだった」と言うのは、全くうわべの付け足しであって、彼らはマリアの行為をお金で判断し、結果「無駄遣い」としか受け取れなかったのです。普通に考えるなら、マリアの計算なしの行為に心を打たれ、心底共感していい場面のはずです。でもできなかった。イエスと生活を共にし、その生き方を目の当たりにしながら、どうしてもこの世的な価値基準から抜け出せない弟子たちでした。
 しかしだからと言って私たちも、弟子たちを批判できる立場ではありません。現代もこの世的価値基準が大手を奮っています。とりわけそれはお金という価値です。お金では買えないもの、代えられないものがあることを知りながら、私たち常に金銭的価値を追い求め、またそれに振り回されています。
 マリアの行為は、お金に捕らわれない、人としてできる精一杯の、最大限の行為だったと言えます。その思いを十分に汲み取られた主は、この後、お金で買えない最大のもの、すなわち命を私たちに差し出して十字架に就かれました。
 十字架の出来事は、ただ一度きりの出来事でした。けれども、主は、私たちのためであるなら、命を何回でも差し出される方だと信じます。私たちがこの世的価値基準にはまり易い存在だからです。私たちも場合によっては、或いはマリアのような行動が取れないことはないでしょう。でも私たちはしばしば最大級の感謝を表す場合であってさえも、時にこの世的価値で計算をして行動します。一番いいものは取っておくのです。ですから逆にマリアのような行為に対して、弟子たちと同じような批判をする存在でもあります。そのようなかたくなさを打ち壊す為に、イエスはご自分の命を差し出されたのです。私たち一人一人のかたくなさのために、必要ならば主は千回でも万回でも、惜しみなくご自分を下さる方なのでしょう。そんな掛け値なしの愛の中に生かされていることを味わいたいレントの時です。何もできなくても、この幸せを思い、一人でも多くの友と分かち合いたいと思うのです。


 天の神さま、あなたの惜しみない愛に応えて、一番良いものを献げる私たちとなれますように。もし幸せならば、それを傍らに分かつ者として下さい。


 
 
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