20160313 『私の今日が、誰かの明日になるなら』 ヨハネによる福音書 12:20〜26
 

 誰にも到底人には話すことができない失敗やつまづきがあります。自分の未熟さ故に招いてしまった失敗もあるでしょう。でも自分でというより、望まないのに押し付けられてしまって引き起こされたつまづきがあります。その痛みや悲しみを乗り越えられず、長くひきずってしまうこともあります。

 永島杏平君もその一人でした。彼は生まれつき吃音で、高校時代、いじめに遭っていました。その相手を殺してしまいたいと殺意を抱いたことで悩みました。高校を中退して、遺品整理業という一風変わった職に就くのですが、うつ病もあいまって、なかなか過去から自由になれず、苦しみが続くのです。

 この長島杏平君は、実は役名なんです。さだまさし原作の映画「アントキノイノチ」の主人公が長島君です。人と出会いながら、次第に過去を乗り越えて行く青年の物語です。何年か前に流行りました。この映画のサブタイトルというか、コピーにこうありました。「それでも遺されたのは未来」。このコピーを見た時、東北の被災者の方が同じことを言っておられたのを思い出しました。めちゃくちゃ辛いけど、どんなに悲しんでも過去はもう帰って来ない。自分たちに遺されたのは未来なんです。或る方がそう語っておられました。この方にとって、その過去とは思い出したくない嫌な出来事なのではなく、叶うことならもう一度戻って来て欲しい過去ですから、一層切ないものがあります。しかし、それでも遺されたのは未来。

 さて、今朝のテキストには不思議な小見出しが付けられていました。「ギリシャ人、イエスに会いに来る」。「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。」20節にそう記されています。しかし、何者なのかは全く分からないのです。名前もみ元も事情も何も分からないのですが、ただ彼らがギリシャ人だったということが、大変重要なポイントです。

 祭りとは、過ぎ越しの祭りのことです。これはユダヤ人にとって欠かせないお祭りです。当時ディアスポラと呼ばれる人々がおりました。これは訳あってイスラエルを出て周辺の国や島へ散っていたユダヤ人のことです。過ぎ越しの祭りには、イスラエルのみならず、こうした散らされていたユダヤ人たちも集まって来ました。ローマが支配しておりましたから、一部にローマ関係の人はいたでしょうけど、過ぎ越しの祭りは基本的にユダヤ人の祭りであったのです。

 そこにギリシャ人がいたことを福音書はわざわざ記しています。残念ながら、何故なのかその背景については書かれていません。しかし続いて21節「彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ」とあるのです。ガリラヤ出身ではあるのですが、フィリポとは、ギリシャ語の名前なのです。これも何故かは分かりません。ただ、この名前を聞いて、或いはフィリポがギリシャ語が話せる人だと推測したのでしょうか、ギリシャ人たちは、直接イエスに会う前に、弟子のフィリポを通してお願いをしたのでした。恐らく、ただ会いたいという面会の依頼のみならず、その理由も話されたことでしょう。

 依頼を受けたフィリポは、すぐさまイエスに報告しても良かったのです。と言うより、本来そうすべきでした。ところが、22節、「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した、とあるのです。このいかにも回りくどい有り様に、ギリシャ人たちがフィリポにとりあえず打ち明けた、彼らが抱えていた事情がかなり面倒なこと、重いことであったのだろうと推測するのです。

 その事情は、もちろん何か分かりません。けれども、本来ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りに訪れたこと。直接ではなく、フィリポを通して面会を請うたこと。そこにのっぴきならぬ彼らの現況、負うて来た過去の重さを推し量ります。

 更にその推測を裏打ちするのが、肝心のイエスの答えです。それもギリシャ人たちへも、フィリポとアンデレにも、直接答えとはなっていない答えの中に、かえって切羽詰まってやって来たギリシャ人たちへの大きな励ましが込められているのでした。

 次の段落に含まれていて、分けられた形になっているのですが、本来はこのギリシャ人たちの来訪というひと固まりの出来事の中で語られている27節のイエスの言葉は、大変象徴的です。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか、父よ、私をこの時から救って下さいと言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、み名の栄光を現して下さい。」

 イエスは、いよいよ十字架への道を歩み始められたのです。エルサレムに入城し、これから幾つかの出来事を経て、ついに逮捕され、十字架刑と処されて行く、まさにその途上にギリシャ人たちが来訪したのです。イエスにとって、もはや残りのわずかな日々は、まさに自分のためだけに用いても良いであろう、緊張の時なのでした。ご自身で言われたように、父よ、私をこの時から救って下さい、と神様にお願いしたい、心騒ぐ極度の不安と恐れの時であったのです。

 ところが、にも関わらず、こう続けられました。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

 この極度の緊張、恐れ、不安が、のっぴきならなくなってイエスの事情も知らずそこへやって来たギリシャ人たちにも同じように彼らの経験して来た出来事の中で与えられており、そして身を小さくされていたのでした。イエスにとって自分の時は、まさにこの時でした。本当は自分のために用いて良い、その最大の時でさえ、同じように今苦しんでいる者のために、その命がある。そしてその命を用いよう。自分の命は、この時のためにあったのでした。今日のメッセージ題の通り、わたしの今日が、誰かの明日になるなら、という未来への深い思いがそこにありました。

 イエスご自身の心がかき乱れ、助けて欲しいと本当は願いたい、そう告白されるその姿は、それをひた隠し、何の弱みもなく余裕たっぷりに「私にまかせておきなさい」などと答える力強さに、はるかに欠け、およそほど遠いみじめな姿かもしれません。

 しかし、だからこそ、同じ思いを抱いてイエスを訪ねたギリシャ人たちには、24節から語られたイエスの言葉が、しみじみと染み渡って行ったでしょう。それは過去のあの時の命を振り返るものではなく、今ここにある命の告白でありました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」

 いじめがあったのか、大きな人間不信があったのか、もう生きていても仕方ないとか、死にたいとか、自分の存在意義が見つからない、そんな揺れる痛みを抱えてギリシャ人たちはやって来ました。その彼らにイエスは言われました。「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と。今、この時、その人生において恐れに満ちている時でさえ、主に従おうとする信仰。その信仰こそが永遠の命をもたらすことを、イエスは伝えられたのです。

実の所、アントキノイノチ、過去を美化さえしてしまう私たちです。逃げてしまいます。しかしそれでも良いから、未来に生きよう。アントキノイノチではなく、コントキノイノチだ、とイエスは語って下さいました。「正直、もうがんばらなくてもいいと思う。だけどこれからがあるから」。5年経った被災地で、ある方がそう語っておられました。今をごまかさず生きることが、きっと未来へつながるのでしょう。

 神様、どうぞ今を生きる私たちにして下さい。




 
 
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