20160320 『 キリスト教からの卒業式 』 ヨハネによる福音書 18:1〜14
 

数年前のちょうど今頃、飛騨高山教会の礼拝に招かれたことがありました。礼拝が終わって牧師館に泊めていただいたのですが、そこに室内犬がいたのです。トイプードルという種類の犬です。名前はトム。もちろん、12弟子のトマスから来ています。イエスが復活された時、十字架の傷跡を見なければ信じないと言ったあの頑固な弟子です。このトムの奴がトマス同様、いやそれ以上に臆病な上に、2晩泊まっても、私に慣れないで吠えまくって夜眠れませんでした。その表情からして、はっきり私はトムの敵のようでした。どう下手に出てもなつかない、受け入れられないのです。
 多分、私が信用できなかったのでしょう。トマスはイエスから「見ないのに信じる人は、幸いである」と語られましたが、私はトムに「見ても信じないのか」と叫びました。臆病な犬ほど吠えるという、そのまんまの例でした。
 さて、棕櫚の主日の今日与えられたテキストは、イエスの逮捕劇の場面です。これは他の4つの福音書がすべて記している出来事で、大体その骨格は同じようなものです。でも今日のヨハネだけは、他の福音書とちょっと違うことを記しているのです。それはイエス、つまり救い主の態度についてです。一言で言うと、堂々として、これから起こることに対し真正面から受け止められ、受け入れられるイエスの姿が描かれているのです。
まずその一つ。場面は1節にあるようにキドロンの谷の向こうにある園でした。エルサレムから急な山道を相当に下ってキドロンの谷があり、そこには多くの墓があり、その先にイエスたち一行がしばしば祈るために集まっていたオリーブの園がありました。ゲツセマネの園のことです。
 やっぱりその時もそこに集う事を知っていた裏切り者のユダが知らせたのでしょうか。ここに大勢の人たちがイエスを捕えにやって来ました。祭司長たち、ファリサイ派の人々の遣わした下役たち、そしてローマの一隊の兵士たちが勢ぞろいしたのです。この一隊とは通常1コホルスの部隊を指す言葉で、それは600名の歩兵隊のことでした。たった一人を逮捕するためのこの騒ぎ、ちょっと想像すると、足が震えてくるような大変緊迫した場面です。
 ところが、この場面において、他の福音書ではユダが知らせたとはっきり記しているのに、ヨハネではイエス自ら進み出て「誰を探しているのか」と尋ねているのです。「誰を探しているのか」とは「誰を求めているのか」とも訳せる言葉です。一人を捕らえるために、不必要なほど大仰な陣営で臨んだ一群の人々でした。兵士たちがいたとしたら、当然幾つもの武器を携行していたでしょう。そのものものしい連中を相手に、イエスは臆さず自分から声をかけられたのです。
 彼らは逮捕しに来たのに、実はイエス本人を知りませんでした。ですからイエスの問いかけに「ナザレのイエスだ」と答えたのです。ナザレとは、イエスの育った故郷の村ですが、そこには名も知れぬ田舎という侮蔑的な口調が込められていたに違いありません。
 しかしイエスはその偉そうな態度に全く押されず、「わたしである」と答えられたのです。これはもともと「私はいる」という言葉です。ヘブライ語では「私はある」と言う言葉は、神さまを表す時の代表的な一つの言葉です。「わたしはいる」とのイエスの返答には、神さまを思わすほどの威厳と大胆さがあったのでしょう。そしてかの地では、神を見た者は死ぬとも信じられておりました。ですから「私はいる」とのイエスの返答に圧倒された彼らは、驚きと恐れの余り後退りして、地に倒れたのです。武器を片手に大勢で押しかけた彼らの、しかし実に臆病な内実がよく表されています。
 その彼らに再度イエスは「誰を探しているのか」と尋ねられ、もう一度「わたしである」と明確にお答えになりました。そして彼らの意図をはっきりさせた上で、自分を探しているのなら、この人々は去らせなさい、ゆかせてやりなさいと命じられたのです。全くどちらが上なのか、完全に立場が逆転しているかのような錯覚に囚われます。これらの一連の言葉と態度には覚悟を決め定めを受け入れた者の落ち着きと静けさが感じられます。逮捕者たちの吠え立て、騒ぎ立てる姿といよいよ対比される訳です。
 この時、弟子の一人シモン・ペトロが剣をもって、大祭司の手下に切りかかりました。これもまた事態の緊迫を伝える大きな出来事でした。しかしイエスはあわてず静かに言われるのです。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と。この言葉は、「飲むべき」というより「飲まずにいられようか」と言ったニュアンスの言葉です。
 こうしてヨハネは、このものものしい逮捕劇の最中、自分に向って来る者たちに、逆に自分から進み出て、弟子たちを守り、本来受けたくはない現実を、神さまからのものとして敢えて受入れる、極めて前向きで能動的で力強い救い主の姿を記したのでした。
 ヨハネがこうした記述を敢えて取ったのには、どのような事情があったのでしょうか。4つの福音書の最後に書かれた福音書です。イエスの死後すでに60〜70年の時が経過していました。憲法9条も70年経って危うい状況です。教会の外では迫害がますます高まり、一方教会内では息を潜めていた律法主義、ユダヤ主義が再び噴出していました。何と言っても人間は弱いのです。目に見えないイエスより、見える形の信仰形式に頼ったり、すがったりしがちです。もはやいないイエス、頼りようもないイエスにより頼むより、例えばもう一度律法をよすがにしたいと思う者が出て来ても、ある意味おかしくはありませんでした。ヨハネの記述は恐らくは、そうした勢力への断固とした拒否ではなかったかと思うのです。イエスの真理にこそ従うべき、それにのみ従うべき、それがヨハネの根底にあったことでしょう。
 そもそもイエスはユダヤ教を捨てて自ら新たな宗教を打ち立て、開祖として活躍しようとして生涯を生きたのではありませんでした。あくまで当時のユダヤ教がはらんでいた幾多の問題、そしてそのことでゆがめられた信仰生活を強いられることへの拒否をしたのでした。その原点がゆがめられかけていました。
 ヨハネ福音書が書かれた1世紀末のことに留まりません。いつしかイエスの言動がキリスト教としてまとめられ、キリスト教会が働きを構成してゆく中で、本来の教えとは基本的に無関係なことまでが、いかにもそれらしく意味づけされ形となって行くのです。
もちろん人間がなすことですから、例えば礼拝の式次第が整えられることなど、組織として致し方ない、当然の結果のこともあります。けれども一方で、形式上のことに必要以上にとらわれて、イエス本来の教えを超えてのさばる思惑が課題となるのです。
 かつて伝道師として働いた教会は大きな教会でした。聖餐式には十数人の役員が配餐を担当します。整然としたほうが見栄えが良いということで、役員が背の順に並ぶのです。そして白い手袋をつけて配餐するのです。私には相当慣れない光景でした。キリスト教とは関係ないことを私たちは作ってしまいがちです。
洗礼を受けなければ聖餐に預かってはならないという考え方が日本キリスト教団の主流です。自分たちこそ正義だと吠える人がいます。ですが聖書のどこにもそのようなことは書かれていないのです。にも関わらずそれが正しい、これが正しいと正しさをぶつけ合う。そして疲弊してしまう。そんなキリスト教から卒業しなければならない。そしてイエスの福音を生きるべしと本田神父が文章を書かれました。卒業し、低みから世を眺め、困っている人と共に生きよう、と。今日の説教題の通りです。人間が勝手に作った規則に汲々とするより、イエスの福音の中に生きること、生かされること。このことこそよっぽど大切なあり方だと思うのです。
 ヨハネの描いた力強いイエスの言動から、それを感じます。イエスは自分の逮捕劇のさなか、裏切りの張本人であるユダに相対されることを何らなさらなかったばかりか、弟子たちすべての矢面に立たれて、「この人々は去らせなさい」と命じられたのです。それは9節で「あなたが与えて下さった人を、私は一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった、とあるように、確かに生前イエスが再三語られたことを証しするものでした。例えばイエスはこうも語っています。「わたしをお遣わしになった方のみ心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」。イエスの言動に全くブレはなかったとヨハネは伝えたのです。
 例え自分を裏切る者であろうと、それは神さまが与えられた者で、イエスは十字架の赦しの故に、決して排除なさらなかっただけでなく、終わりの日には共に復活させたい、それが神さまのみ心であると固く信じていたのでしょう。どんな者をも許して受け入れること。まことに、これが赦す方の示された深い愛でした。赦すことも受け入れることもままならない私たちには到底及びもしないみ心でしょう。これが福音でした。
 しかしそれだからこそ私たちは、どんなに私たち自身が弱くて揺れる存在であり、貧しい器であるとしても、この主の福音を信じ一切を委ねることができるのです。そして或いはこの方に留まる時、ほんの少しであっても変わることができるかもしれない期待と可能性を抱くのです。ただひたすらに私たちを赦そうとする方の愛の中に生かされていることを心から感謝して、イースターを待ち望みたいと思います。

 天の神さま、レントにあって覚えた最大のものは、私たちの愚かさとあなたの赦しでした。この愛を心に刻んで主の復活を待ちます。うわべのキリスト教を卒業し、主の福音に生きる私たちとして下さい。イースターが豊かな祝福となりますように。




 
 
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