20160403 『 幸せは誰でもサイズフリー 』 ヨハネによる福音書 20:19〜31
 

先日、「人魚に会う日」という映画を心斎橋で観て来ました。これは沖縄出身で、現在慶応大学の3年生の仲村颯悟君が入学したて18歳の時に撮った映画です。ホラーファンタジーというジャンルの映画で、辺野古を匂わす架空の辺野座というところに米軍基地ができる、それを人魚が犠牲となって食い止めるという、おおざっぱに言ってそんなストーリーです。
映画は18歳が作ったにしては、なかなか見ごたえあるものでしたけど、私はどうしても「いけにえ」とか「犠牲」がなかったら事が進まないというそのストーリーに違和感を覚えました。恐らくそれは仲村君の真意ではなく、映画を通してみんなそれぞれ考えて見てよというメッセージだったろうと受け取っています。
キリスト教に長くいる間に、ついつい引っかかるものが出て来ます。例えば、もう引退しましたけど桑田真澄投手は、しばしば「野球の神さま」という言葉を用いるのです。彼には彼の信じるものがあるのだから、囚われなくても良いのですけど、私は、ちょっと意地悪に考えてしまうのです。野球ってアメリカで生まれたスポーツなんだから、もし野球の神さまがいるなら、やっぱり英語で話すんだろうか。それとも後で別に日本語を使う神さまが日本に特別に生まれたんだろうか。野球に神さまがいるなら、サッカーの神さまもいるんだろうか。カーリングの神さまもいるんだろうか。それはPL教の神さまなんだろうか・・・。
 まあ、そんな事は冗談です。野球の神様というのは一つの表現で、心のどこかでそんな声が聞こえて来るのだと、もちろん理解しています。表面の言葉だけをいじってしまうと、真意が伝わらないということがあると分かっています。
 今日与えられたテキストは、イエスが弟子たちの間に復活された出来事でした。彼らにとって恐らくそれまでもよく使って来た家に篭っている時に、イエスは姿を表されました。「そこへイエスが来て立たれ、言葉をかけられた上で、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」、19節から20節にかけてそう記されています。
 イエスが手とわき腹を見せられたというのは、確かにご自身であり、よみがえられたということを伝えたかったのでしょう。それを見て弟子たちは喜んだと続く訳です。ところが、日本語ではそういう訳しかできないのですが、もともとのギリシャ語では、この20節の短い文章に実はヨハネが一番伝えたかったものが凝縮されているのです。
 ギリシャ語には「見る」という単語が幾つかあります。例えば、いわゆる普通に「見る」という意味の単語です。目を開けていれば否応なしに目の前の現象を見ます。そういう意味の「見る」。それから、大変注意してじっと見つめるという意味の「見る」。イエスが病気の人などを見たと言う時の「見る」は大抵このじっと見つめるという単語が使われています。
 ところがこの20節では、そういう見るとか見つめるではなく、「オラオー」という単語が使われていて、それは「精神的に見る」とか「心で見る」とかいう意味の言葉なんです。
 更に「喜んだ」とある言葉も、単純に感覚的に喜ぶという意味の言葉ではなくて、たとえ苦しみがあっても、苦しみの中にあっても喜ぶという意味の単語「カーラー」という単語が使われているのです。
 ですから、私たち日本人が日本語でこの箇所を読むと、復活されたイエスが肉体的によみがえられたのをお見せになって、それを見た弟子たちは喜んだ、というふうに受け取ってしまいがちですが、実はそうではない。イエスが彼らの真ん中に立って下さった、その主と共にいる恵みを心で見て、その喜びを、この世の苦しみの中にいても感じた、そういう意味において喜んだ、ということなのです。
 そして次のもう一つの段落には、トマスの出来事が記されています。25節で、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言うと、とあるのは、やっぱりオラオーという単語で、精神的に見るという意味の言葉です。トマスはそれを信じることができず、自分で見、触れてみなければ決して信じない」と言い放ちました。その「見る」とは通常の現象を見るという意味の単語なのです。疑り深いトマスとしてよく例えられますが、この状況では普通誰でもそうだと思います。或いは、自分だけが取り残された意地みたいな感情があったのかもしれません。
 このトマスに主は「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と声をかけられたのです。そして更に「見ないのに信じる人は、幸いである」と続けられました。トマスだけではなく、弟子たちはイエスの処刑の後、自分たちも捕えられる危険があるので、恐れで満たされていました。ですからエルサレムの隠れ家で、そこに夕方のうちから家の戸に鍵をかけて潜んでいたのです。そこに主が姿を表されて「あなたがたに平和があるように」と言葉をかけられたのです。平和があるようにとは、有名なシャロームという言葉ですが、それはただ争いや戦いが具体的にないことを指すのではなくて、心から信じて平安に落ち着くことを意味する言葉です。
 この時の事情からすれば、恐れに満ち、疑心暗鬼に捕らわれ、小さくなって不安に襲われていた弟子たちの心情は、当然だったと言えるでしょう。トマスが仲間の言葉を信じられないで、疑ったのも、おかしくはありません。
 さてイソップ寓話に「北風と太陽」という話があります。多くの方はご存知の物語でしょう。北風が自分の力を示そうと太陽にもちかけるのです。どちらが旅人の上着を脱がせることができるか。北風は必死になって風を送り続けます。旅人は当然寒いし、風に飛ばされてはならないと、かえってそれまでより固く上着をまとって離さなかったのです。あきらめた北風に代わった太陽は、特に何かをしたのではありません。自分の光を照らしただけです。でも気温はグングン上がり、暑くなった旅人はたちまち上着を脱ぎ捨ててしまった。北風は己の思いあがりを恥じて、二度と偉そうにはしなかった、そういう内容です。
 実はヨハネによる福音書は、21章までありますが、21章は後代の加筆であって、もともとは20章で終わっていました。20章の最後30節と31節にこの本が書かれた目的が記されていて、主が多くのしるしをなさったことと、それを書いたのは主を信じるため、信じてイエスの名により命を受けるためだったと書かれてあります。
 つまり、今日読んだテキストは、よみがえりのイエスがなさったことの具体的な、大きな例の一つであって、これが本来のヨハネ福音書のラストに記されたことだったのです。恐れと疑いでいっぱいになっていた弟子たちのところにイエスが現れ、かけられた言葉。普通であれば、自分を裏切り、逃げて小さくなっている人々など、顧みる必要はないでしょう。私たちなら切り捨てることでしょう。或いは腹立ちのあまり怒鳴り込み、殴り込むことだってありえます。本来、北風に吹かれて凍りつくような場面であるはずです。
でもイエスはそうなさらなかった。彼らの家の真ん中に立って言われたのです。それは彼らの心の中心に立っての光を照らされたということでした。「あなたがたに平和があるように」と重ねて言われたあとで「父がわたしをお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と彼らを用いられることをも伝えられたのです。またトマスにも言われたのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 太陽がその光を照らして、旅人の上着を脱がせた寓話のように、主は深い赦しをもって、愛によって、固まっていた弟子たちの氷の心を溶かしました。それがヨハネが福音書の最後に記した証しの出来事でありました。
 これがイエスの愛でした。暖かいのです。誰かの犠牲の上に立つ幸せではありません。春が来て、私たちもコートを脱ぐ時となりました。私たちの誰もが直接イエスの姿を見たことはありません。けれども、イエスの愛は精神的に見ることができる。心で受けることができる。感じることができる。そして見ないで、信じることができるのです。主は復活されました。北風の季節が終わり、太陽の季節を迎えました。恐れの上着を脱ぎ捨てて、出かけましょう。この幸せが誰のもとにもサイズフリーで届けられました。

天の神さま、あなたの赦しの深さを思います。幸せです。本当に感謝です。私たち、心のトビラを開かれて、新しい歩みを始めます。どうぞ祝し、お導き下さい。

 
 
 日本基督教団 東神戸教会 〒658−0047 神戸市東灘区御影3丁目7−11  TEL & FAX (078)851-4334
Copyright (C) 2005 higashikobechurch. All Rights Reserved.