20160417 『 笑って、いい供! 』 ヨハネによる福音書 21:15〜25
 

私たちの人生にはしばしば「誤解」が生じます。誤解が解けないうちは、その誤解に従って歩む他はないので、良い悪いではなく誤解の延長線上の生活が続くことになります。しかし、ある時その誤解がほぐれたとしたら、そこから新たな光の人生が展開するでしょう。今まで誤解によって構えていた鎧が打ち崩され、そこに笑顔が戻って来る、きっと多くの人はそのことを体験的にも知らされていることと思います。
 さて、今日もう一度、ヨハネ福音書の最後の章、21章から学びたいと思います。ここは後代の加筆だということを、先週も確認しました。復活なさったイエスが、ガリラヤのティベリアス湖畔に姿を表され、漁をしていたペトロたちに朝の食事を振舞われたのでした。イエスに従うことは、決して絶望や失意で終わるものではなく、かえってこれからを生きる喜びや力となることを、この出来事は示しました。
 その食事が終わった後で、イエスがペトロに尋ねられたと言うのです。それは「私を愛しているか。」という質問でした。少しずつ、言い方は違いますが、この質問を主は3度繰り返されました。そして、「愛しています」とペトロが答える度、「私の羊を飼いなさい」とお命じになられたのです。
 先週読んだ一つ前のテキストから、この時ペトロがどんなに嬉しく、喜びに満ちたかを知らされました。ですから、「私を愛しているか」と問われたペトロは、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたのです。普通なら、「はい、愛しています」と答えれば良い訳ですが、喜びに満たされていたペトロにとって、それは言うに及ばない問いだと強調したかったのでしょう。
 けれども、同じ質問を三度も繰り返されるうち、さすがに彼は「しつこい、あんまりだ」と感じたに違いありません。17節にはイエスが三度目も「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなったとあります。さっきまでの満たされた思いが急にしぼんでしまったかのようです。
 ただしそもそも考えて見れば、「あなたがご存知です」などと、偉そうに言えた義理ではないのです。むしろ、十字架刑の前、三度主を否定したペトロです。主を棄てて逃げ出しました。つい先夜夜通し漁をして、何も取れなかった時、イエスに従うことへの失望を味わったペトロでした。その自分の素の姿がたちまち浮かんで、情けなくなったことでしょう。そんな自分自身の事を思えば、イエスに対して何も言えない訳で、これ以上いじめんといて下さい、と悲鳴を挙げたいような質問の繰り返しに思えます。
 ペトロの側からすれば、その通りなのです。けれども、実はこの会話には初めからすれ違いがありました。ギリシャ語の聖書ではその違いがすぐ分かるのです。「私を愛しているか」と問われた主の言葉、この愛すると言う言葉に、イエスはアガパオーという単語を使われたのです。神さまの愛に基づく愛をアガペーと言いますが、それです。ところが、ペトロの方は「愛しています」と言う返答にフィローという単語を使って答えたのです。フィローとは、通常のこの世的・人間的な愛、或いは知的なものを愛するという時に使う言葉です。
 このアガパオーという言葉で、イエスは最初と次と二回質問をされたのです。そしてペトロはフィローという単語で最後まで返答を重ねたのです。残念ながらペトロには、この違いが聞き取れませんでした。三度目の正直と言います。もともとは賭け事や占いにおいて、一度や二度は当てにならない、三度目こそが本番という意味です。ペトロからすれば、イエスが三度も同じ質問をされたのは、初めの2回の返答では当てにならない、イエスはそう思われたのだ、実際自分はそういう器に過ぎないのだから仕方ない、そう受け取って、悲しくなったのでしょう。
 しかし、それはイエスに対してうしろめたさを抱くペトロの側の誤解でした。イエスの側からすると、そうではありませんでした。二度、アガパオーという言葉で質問をしたけれど、返答の単語は二度とも「フィロー」だった。普通私たちなら、こらあかん、こいつはこっちの意図は何にも分かっとらん、と諦めるところでしょう。でもイエスは三度目の質問では今度はペトロの用いた「フィロー」を使って「私を愛しているか」と問われたのです。それはこいつは何度言っても分からんからしようがない、と諦められたからではありません。理解できない相手に一歩譲ったということでもありません。間違ってもペトロの頼りない器を問題視されたのでも、信用できないからしつこく迫ったのでもないのです。そうではなく、大事な事を伝えるために質問を繰り返されたのであり、そのために相手の言葉を用いてでもそうしようと三度目自らの言葉を変更なさったのです。一度目と二度目は当てにはならないと疑われたのではなく、イエスは最初から本気であり、三度目も正直に思いを伝えられたに過ぎないのでした。
 この先、ペトロが人を獲る漁師として、教会で働いて行くと言う時に、一番忘れてはならないものがここで伝えられました。それは一にも二にも主を愛するということ。つまりそれは、イエス本人というよりイエスの生きざまに込められた考え方、ありようを愛するかどうか、大切にするかどうなのか。そしてその一点に立って、羊を飼う、すなわち他者に接してゆくという事でした。ペトロが主を愛し、そしてその愛に立って今度は隣人に相対して行くこと。これが一番大切なことでした。それだけをしっかり抱えてイエスに従えば良い。ペトロに大切なのはそれだけでした。勝手に誤解していたペトロにはそれまで見えなかったのです。それだからこそ、この後、ペトロがイエスが愛しておられたと言われる弟子、恐らくはヨハネのことですが、ペトロはヨハネに嫉妬して、これから「この人はどうなるのですか?」と尋ね、それに対してそれが「あなたに何の関係があるか」とはっきり言明なさったイエスの言葉が更に記されているのです。
 この加筆がなされた頃、当時の教会は主の死後およそ一世紀を経過して、教会において信仰において、本来第二義のものが大きく力を振るうようになっていました。例えば、誰に従うか。どの人の意見を選ぶか。或いはどういう作法が大事か。どう律法を重んじるか。それらはまさに信仰の本筋からそれてゆくものばかりであり、しかしこの世に生きる人間がしばしば陥り、誤ってしまう事ごとの見本だらけでした。そうではない、この最も大切な教えをペトロが受けたことを、筆者はどうしても加筆せねばならなかったのです。
 いかがでしょうか。こういう危険性は何時の時代も私たちが孕んでいるものではないでしょうか。有名な人、大きな働きをする人、多くの発言をなす人。こういう人たちを無批判に担ぐだけでなく、時には神さまのごとく祭り上げる危険性を私たちは持っています。人間だけではありません。制度が大事になってしまうこともあります。規則が第一になってしまうことも多々あります。例えば今の教団がまさにそうです。教憲・教規、信仰告白をことさら持ち出し絶対化して、それに従わなければ切り捨てられるかのような風潮です。誤解です。
 しかしイエスはペトロを用いて、「私を愛しているか」と繰り返し尋ねられました。その上で「羊を飼いなさい」「私に従いなさい」と命じられました。私たちにとって、最も大切な問いかけです。イエスはそれを私たちへの戒めとして問われたのではなく、正直に、誠実に、愛をもって問われたのです。謙虚に従いたいと思います。ついに見えるようになったペトロの笑顔を想像します。今日笑顔という言葉を用いるのはちょっとつらい状況にありますが、しかし私たちも笑顔で主の供をしたいと思うのです。


 天の神さま、今日は一番大切なことを教えられました。イエスを愛しているかどうか、すなわちイエスの生きざまを規範に生きているかどうか、それぞれ心に問いたいと思います。イエスが私たちを愛して下さるその愛に立って、歩みたいと思います。どうぞそのようにお導き下さい。

 
 
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