20160424 『 今までになかったワクワクを 』 ヨハネによる福音書 15:18〜27
 

 皆さん、初めてフランス料理を食べた時のことを覚えていますか?あらかじめマナーを教えてもらっていれば良いですが、そうでない場合には、料理そのものよりマナーにドキドキします。分からないので仕方なく隣の人のする通り真似たら、隣の人も初心者で間違ってたりする訳です。私はですから、無理をしないで可能ならはしを頼むことにしています。
高知にいた時、皿鉢料理という地元の食べ方を知りました。要するに大皿に何でも料理を乗っけて、みなそこからてんでに好きに取って食べるという、いわばマナーいらずの、フランス料理の対極にある方式でした。
フランス料理がダメという話では、もちろんありません。ただ、ワクワク期待したい時、必要以上の緊張感が与えられると、本来の期待感がそがれることがあるという話です。
 その問題自体への賛否をしばらく脇に置いて考える時、本当はこうあるべきだろうなと大体の人がウスウス感じている。でも、相手が巨大だったり、何となく危うかったりで、ついつい見て見ぬフリをしたり、口を閉ざしてしまったりすることは、実はよくあることではないでしょうか。例えば天皇制の問題などはその代表だと思います。
 けれども、それでも本当はそういう沈黙や看過が、問題を先延ばしにし、いっそう深いものにしてゆくことは、歴史を通して知られていることでしょう。差別問題などまさしく象徴です。部落問題にしても黒人問題にしても、もともと差別する理由がないのです。それを国家や中心権力がなすことで、一般の人々にいかにも何か理由のあることかのように浸透してゆくのです。
 さて、今朝のテキストのイエスの言葉は、当時のイスラエルの社会情勢を踏まえたものです。イエスの弟子たちへの決別説教の一部で、「迫害の予告」という小見出しがつけられた個所です。お別れの言葉ですから、弟子たちはそれ自体緊張して聞いたことでしょう。でも同じ15章最初の段落では、イエスは「わたしはまことのぶどうの木である」と語られていて、ここでは弟子たちは緊張の中にも、何かが与えられる期待感を大きくしたと思われます。
しかし続く今日の個所は「迫害の予告」です。きっと必要以上の緊張感が増し加えられたでしょう。ここでイエスが「人々」とか「彼らは」と語りましたが、それは実は特にファリサイ派の人々を指して言われた言葉なのです。
 ファリサイ派のファリサイという言葉は、よく知られているように「分離」とか「区別する」いう意味です。彼らは律法を他のユダヤ人に優って、大変大事にしました。律法を守るという事が、彼らの生きる目標であるばかりでなく、他者を判断する基準でした。個人的にどれだけ律法を求めるとしても、それは自由です。けれども彼らには、自分たちこそが律法を固く守るユダヤ人の中のユダヤ人という自負がありましたから、その自負のためには、むしろ律法を守らない駄目な人間の存在がどうしても必要だったのです。いわば彼らはフランス料理のマナーを十分知っている人々でした。
仮にみんなが律法をしっかり遵守するならば、彼らの存在価値はありませんでした。しかし現実には800を越える律法をすべて守って生きることは、なかなかできるものではありません。どうしてもそこから落ちてしまう、もれてしまう人間が出てきます。ファリサイ派にとっては、そここそが狙い目、自分たちの優位性を立てる欠かせない相手だったのです。
このファリサイ派の存在は、当時十分に社会全体に浸透し、影響力を持つものでした。それが現実ローマの支配を手助けするものであっても、多くの庶民には面と向って批判などできない集団だったのです。そうして庶民たちの沈黙は、いっそうファリサイ派の行動を実質的に認め強めることになりました。
 ところが、律法を守るというやり方ではなく、こぼれてしまった人たちと親しく交わるという思いがけない方法を取る人物が現れました。言うまでもない主イエスです。
この人は、神さまの祝福から漏れた結果病を得たことになっているはずの、皮膚病の人や盲人や障がいのある人や精神的な病気の人を大事にしました。また同じように、祝福から漏れたはずの未亡人にも目を留めました。それだけなく、イスラエル人からすれば、憎むべきサマリア人をも交わりの対象としました。そしてしばしば食事を共にされました。
 イエスにあったのは、それら事情を抱える人たちを看過しないこと、無視しないことだったでしょう。黙って通り過ぎることは、神さまの愛に照らす時、あり得ないことでした。それよりマナーを無視してでも、彼らと出会い、共に食事する喜びのほうがよほど大きな喜びであったのです。
 この主人の行動は、弟子たちにとっても喜びの力となったと想像します。そもそも弟子たち自身が、それぞれこの世から軽く扱われていた人々の一人だったからです。ある者は名もない貧しい漁師であり、ある者は忌み嫌われる徴税人であった訳です。主人イエスが、盲人や病人の前でいちいち立ち止まり声をかけること、彼らと一緒に食事をすることは、当初弟子たちにとって驚異の言動だったと思われます。弟子たち自身にも将来の自分たちへのこの世的願望がありました。マナーを知らない自分たちも、いつしかマナーを知ってこの世で大きく振る舞いたいと密かに願っていたのです。
しかし、当時の社会の中で「彼らとは付き合うな」とタブーとされていた、暗黙の了解のうちにあった人々に目を注ぐ主イエス、その言動に従う事を通して、自分たちも彼らと同じだったと確認したでしょうし、また実際交わりを持ってみれば、それまでのタブーは意味のない、故のない言われなき差別であったことを徐々に知らされて行ったに違いないと思われます。すなわち、それはそれまでの縄目からの解放の出来事となりました。はしで食べれば、下手な緊張なしで、豊かな食事が取れることを教えられたのです。
 しかしそれこそが、ファリサイ派の怒りを買いました。ふとどきでした。自らの優位性が勝手に壊されてしまうことのみならず、その優位性を保つ理由が壊されてゆくことでした。それは彼らにとって恐るべき脅威でした。イエス一人のみならず、弟子たち、そして更にそれに従おうとする者たち、これを許すなら、燎原の火のごとく、崩壊がとめどなく広がってしまうのです。ファリサイ派の存在そのものが揺るがされかねない事態を招きます。
 イエスは、このファリサイ派の焦りと不安をよく承知なさっていました。そこで生きている間に、今日のテキストの言葉を弟子たちにお伝えになったのです。真に主に従おうとするなら、迫害されるのです。それは十分に怖いことであり、意気消沈させる力となることでしょう。いずれ自分なき後、弟子たちに絶望や敗北感が与えられることもあるでしょう。
しかし、それでもなお、神さまの愛に照らして正しいことがある。予想以上に喜びが与えられる。たとえどんなにこの世の力が巨大であっても、隠すこと・消すことのできない神さまの正義がある。それを伝えず、ただ単にうわべだけの言動をなすことは、福音ではない。それではファリサイ派と同じみせかけに終わってしまう。イエスはそう思われたのです。ですから16章の最初に「これらのことを話したのは、あなたがをつまずかせないためである」と語っておられるのです。つまずくとは、真実を見失うこと、忘れてしまうことを言うのです。
 私たちも現代、やっぱり2000年前のイスラエルと同じような現実の中で生きています。何となくおかしさを感じても、なるべく言わないように、目立たないように、おとなしく。確かに課題は、相手は巨大だし、無気味だし、自分は無力だし。この世に無難に従っていたほうが、どうも得策。そう思わせる意味において迫害は今も続いていると言えるのかもしれません。ファリサイ派が目指した「分離」は、形を変えて、かつても今もあるのです。
 人々を大切な真実から分離し、分断し、引き剥がそうとしたものに、イエスは身を挺して立ち止まり、もう一度結び合わせ、交わりを持たれました。そのイエスが何度も弟子たちを励まされたのです。「恐れるな」と。それは迫害そのものより、真実を見失うつまずきの力に対してであったと信じます。私たちも、この励ましに立ちたいと思います。今までになかったワクワクを味わいたいのです。


天の神さま、主の励ましに感謝します。決して大きな事はできない私たちです。けれども、主の励ましを通して、忘れてはならないものに気づかされます。あなたは、私たちのできる事を促し、後押しして下さいます。恐れを突き抜けたところにある真実を見るものとならせて下さい。

 
 
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