20160501 『 日曜まいど劇場 』 ヨハネによる福音書 16:25〜33
 

大阪大学付属病院の高度救命救急センターに、塩崎忠彦というお医者さんがいらっしゃいます。先生が、以前「意識障害の今までの常識は間違っている」という講演をなさったことがあってその記録を読みました。
先生は若手の医師時代、脳の障害で眠り続ける患者は、ほとんど元に戻らないと思い込んでいました。それは先輩医師たちも同じで、それが当時の医学の常識でした。しかし、常識に添っていたというよりは、見放していたのだそうです。そこには根拠などありませんでした。ですから患者の家族に対しては「奇跡的に戻る人もいるけど、非常に珍しい例だ」などと冷たく話されていたのを後悔されたのです。
勝手な常識がひっくり返されたのは1996年のことでした。2年前からのイギリス留学から帰国した後、ふと留学前に診察した交通事故の男性のことを思い出しました。ずっと意識は戻らないだろうと思っていましたが、どうしているか気になって、患者の家族に電話してみたのだそうです。
ところが電話に出たのはその患者本人でした。信じられなくて「え?」と何度も聞き返したそうです。大変なショックでした。そして、自分たちはこれまで大変な間違いをして来たのではないかと気づかされたのです。
それから頭部のけがで阪大救命救急センターへ運ばれ、一ヶ月意識がなかった35人の患者を追跡調査してみたところ、一年後には6割の方の意識が戻っていました。中には二年後に眠りから目覚めた人もおり、全く元のように元気に働いている人もおりました。
そして塩崎先生は今言われるのです。「意識障害は年単位で治って行く。直すのは医者じゃなくて患者自身の力だと思う。だから決してあきらめないで下さい」と。私はこの記事を読んで、この時代になっても、医学の常識が必ずしも常識ではない、そんなことがある事を知らされました。そして確かに塩崎医師の言われるように、患者自身の中に回復の力が備えられているのでしょう、けれどそれは私たちから表現すれば、すべて神さまが与えられたものだということです。
さてヨハネ福音書の14章から今日のテキスト16章終わりまではイエスの訣別説教のカ所です。今日のテキストでお別れの説教を語り終えたイエスは、祈りをささげられた上で、いよいよ敢えて捕えられるためにゲツセマネの園へ向われたのです。ですから今日のカ所は、お別れに当たっての結びの言葉となります。
今日のテキスト一つ前の一段落では、小見出しにつけられているように、「悲しみが喜びに変わる」ということが語られています。これから起こる出来事に対してのイエスの預言がなされたのです。
ただ、変わると訳されている原語は、本来「なる」という意味の言葉です。「悲しみが喜びになる」という方が忠実な訳です。悲しみが喜びに変わるというと、いかにもパッと劇的な転換が訪れるような発想を抱いてしまいがちです。
悲しみが霧のように消えうせて喜びに取って代わられるようなこと、イエスはそんな劇的な変化を指して語られたのではなく、悲しみのうちにも喜びが染み出すような、悲しみは悲しみとしてあったとしても、ただそれだけで終わるのではなく、そこにこれからへの希望や生きてゆく喜びが与えられる、そんな形での転換が与えられるということを語られたのです。
塩崎医師が気づかされたことは、まさにそれに近いことだったと言えます。一ヶ月も二ヶ月も意識不明のまま、言わば植物人間のような状態の患者に、取り立てて回復の見込みはないと信じられていた医学会の常識。その宣告。それは患者の家族にとっては、耐え難い悲しみだったろうと思います。全く先の展望が与えられない悲しみです。けれど、それは常識ではありませんでした。むしろ意識が戻る事の方が多かったのです。もちろん誰もがそうではないし、意識が戻ったとしてもすべてが元に戻る訳ではありません。でも、諦める必要などない、かえって可能性のほうが高いと分かったとしたら、悲しみ・苦しみのうちにも希望が沁みこんで来る、根底から力を与えられる、そんな喜びに包まれるに違いありません。神さまは、私たちを悲嘆に暮れるような絶望から断固救って下さるために、十字架の出来事からイエスを復活させられたのでした。
今日のテキストは訣別説教の結びでした。この一段落は後代の加筆と言われています。ヨハネ福音書は、主が亡くなられてから、一世紀近くが経って書かれたものです。イエスはもちろんのこと、主に従った弟子たちも天に召され、迫害はなお一層広がり、当時の信徒たちは直接すがるものをみな失って、大きな動揺の中におりました。
この加筆をした者、誰かは明らかではありませんが、でもヨハネから再三イエスの最後の説教について聞かされていたヨハネの弟子の一人だったでしょう。これまで綴られていなかったその言葉を、いかにも一切がくずれていくかのような教会内外の状況の中で、どうしても書き残さねばならないと考えたのでしょう。
それは、確かに今イエスも、イエスの弟子もいない不安で恐れおののく寂しい状況下ではあっても、でもイエスが語られた永遠の神さまの愛はあって、失ったのではなくその愛のうちに自分たちは生かされているのだと言う証しでした。
こうして27節で「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである」と語り、32節「しかし私は一人ではない。父が共にいて下さるからだ」というイエスご自身の言葉を記したのです。これからイエスは捕えられ、十字架につこうとされている、そのいよいよ最後の言葉です。イエスにも例えようのない恐れや不安があったでしょう。でも自分には神さまがいて下さる、それ以上の力や支えはない、という確信をここで持たれたのです。小さな自分を取り囲む大きな神さまの愛があるのです。この世の常識、私たちの思い込みを超えるものの中に生かされていることの真実をイエスは最後に弟子たちに語り聞かせました。
先輩の牧師がこういう文章を書かれておりました。
「一人の拒食症の女の子がいた。自分は消えていなくなってしまえばよい、と言い続け、入院することになった。親は苦しみ、治療に当たった医師も悩みぬいた。両親にとっては地獄に落とされたとしか思えない病室で、涙と共に祈りをささげ、幼い命を何とか救おうと懸命の努力を重ねた。そしてようやく症状も軽くなり、退院をして女の子は家庭に戻って来る事が出来た。地獄の日々ではあったが、「ここにはまだ愛がある」という状況が、子どもと家族を救った。闇の世界で神の愛がどこからか注がれる。イエスが既に世に勝っているから、闇は勝利を収められない。」
私もそうだと思います。闇のような現代の有様です。たったひとりぼっちでこの世の暗闇をさ迷い、どんなに探してもどこにも愛がない、救いがないように感じる現代です。とりわけ何かの課題を負って、不安の渦中にいる人はそうでしょう。
でも、どこにもないように思われるものが、イエスの言葉の中にあります。確かに証しされています。私たちを愛され、それ故に十字架につかれ、復活なさった方がはっきり語られたのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と。
毎週私たちは礼拝に招かれます。一年を通して繰り返し様々な行事が繰り返されます。ある意味それは毎度の出来事で、マンネリの行事かもしれません。しかし、ただの季節行事でもありません。礼拝を通し聖書を通し、私たちはイエスの言葉を毎度ワイドに与えられ、それによって力を得るのです。私たち、もうそんなの常識、知っている、ではなく、今日初めて与えられたかのように、イエスの勝利宣言に従おうではありませんか。

天の神さま、この世の苦難に翻弄される私たちです。何かがあるとたちまち不安におびえる小さな器です。でもあなたはその私たちを愛され、いつもみ腕の中に生かして下さいます。悲しみが喜びになることが事実ある。その事に気づかされ、恐れを取り除かれ、勇気を持って生きる者にならせて下さい。

 
 
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