20160508 『 川は流れてどこどこ行くの 』 ヨハネによる福音書 7:32〜39
 

かつて清流で名高い四万十川の源流を見に行ったことがあります。高知県・中村市の海辺から遡って東津野村、四国山地のひっそりとした山中まで足を運びました。遂に源流地にたどり着いて不思議な感覚に包まれました。ここから流れが始まるというには余りにも密やかで、あっけないほどの小さな湧き水だったからです。こんなわずかなところから水が涌き出て、しかし流れを重ね支流を束ねて、やがて美しい四万十川となって太平洋まで流れ出る訳です。とても感慨深いものがありました。
 喜納昌吉さんの1991年の名曲「花」を思い浮かべます。「川は流れてどこどこ行くの、人も流れてどこどこ行くの、そんな流れが着く頃には、花として花として咲かせてあげたい、それが自然の唄なのさ」、と歌われています。
 そんな自然観に比べると、イスラエルのヨルダン川は実にドライです。ガリラヤ湖から死海へと一筋に流れ込む非常に単純なルートです。ヨルダン川が死海の唯一の水源なのです。死海は海抜400メートル以下に位置する湖ですから、ただ流れ込むだけ、あふれることのない行き止まりの川であるのです。
 ヨルダン川を実際に見たことはないのですが、四万十川を始めとする日本の川とは全然違う川の表情であることは間違いありません。旧約聖書のアモス書5章に「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」という有名な一文があります。でも実際にはイスラエルにおいて、洪水とか大河はあり得ないのです。いつも水が豊かではないのです。雨季と乾季がはっきり分かれているからです。基本的に一年中水が保たれている日本とは全然違う。
 そして最終的には流れ込むだけの死海は、ですから塩分濃度が大変濃い、生き物のいない湖で、それゆえにはるか昔から死海と呼ばて来ました。しかしだからこそ、ユダヤの人々にとって、神さまの正義や恵みの業が、最終的に行き場のないところへ流れ込んでお終いになるのではなく、あふれるほどの洪水、大河となって周辺に満ちるという夢のような光景、あこがれを抱かせたのだと想像します。
 もう一度喜納昌吉さんの「花」という歌に戻ります。泣きなさい、笑いなさい、心の中に心の中に、花を咲かそうよというよく知られたフレーズがあります。その通りだと多くの人が共感するのは、さて私たちが実際生きる上で、大切なことであるはずなのに、悲しいかなそ、れが分かっていても、なかなかそれを第一にできないからではないでしょうか。川の流れのようにはシンプルでない、人生の常、すれ違い、逆流が本当に多いのです。
 さて本日のテキスト、前半の一段落では、イエスを逮捕しに、祭司長とファリサイ派の人々が下役を使わしたことが記されていました。十字架の出来事を前にして、イエスは「あなたたちは、私を探しても、見つけることができない。私のいるところにあなたたちは来ることができない」と彼らに語られたのです。
 いかがでしょう。私たちはこの箇所を読む時、おぼろげではあっても、イエスの言葉を理解することができることでしょう。イエスは自分は、天の神さまの元にいる、そこにつながっている、その永遠の命の中で生かされているということをここで語られたのです。逮捕という目の前の現実について具体的なこと、物理的なことを語られたのではない、ということが分かると思います。
 ところが、それは下役たちには理解できなかったのです。イエスが語られた言葉どおりに受け取って、「見つけることができないとは、いったいどこへ行くつもりだろう。来ることができないとは、どういう意味なのか」訳が分からんと、いぶかしんだのです。とんちんかんで、私たちには幼稚な返答に思えます。神さまという視点を持たず、この世の現実のことだけを見ていると、まさにこういうことになるという見本であるでしょう。真理の流れに沿ってないということです。
 この時、仮庵祭というユダヤ人にとって大切な祭りが行われていました。これが後の一段落の記事です。仮庵祭は、収穫感謝の祭りですから、人々にとってはとってもうれしい喜びのお祭りでした。と同時に、仮庵祭はユダヤ人がモーセに導かれかつてエジプトを脱出した事を記念する祭りでもありました。つまり収穫感謝という意味でも、エジプト脱出という意味でも、それに共通な「水」がこの祭りの主役だったのです。それで祭りの終わりの日に、エルサレムの祭司がシロアムの池から水を汲んで来て、それを神殿に献げる儀式が祭りの最大行事となっていました。
 そもそもエルサレムは標高800メートルの地にある円盤状の城塞の都市です。水はとても大切でした。地下深いところに一箇所だけ水脈があって、シロアムの池はその出口のところにありました。町からはかなり南に離れ下って行ったところにあるのです。そこまで祭司が出かけて行って、喜びのしるしとしてうやうやしく水を汲んで来る。そして神さまへの捧げものとして、祭壇の上にその水を捧げるのです。その瞬間に、聖歌隊が高らかに賛美の歌を歌います。それが終わると人々は、皆でエルサレムの神殿の周りを七回回るのです。これが水を中心としたお祭りのクライマックスの儀式なのでした。
 7回神殿の周りを回るということには、かつてエリコの城壁を潰したとき、ユダヤ人がその城の周りを7回回ったという故事にちなむ意味が込められてもいました。何もないところから勝手に出てきたのではなく、一応出所に意味がありました。けれども、この時代、そうした祭儀はすっかり形式化・形骸化して、その中身について考えることはほとんどなく、ただ形として祭りを実行するための手立てに過ぎなくなっていたのです。どんなに人々にとってうれしい祭りであっても、楽しいひとときであっても、中身を忘れた、外面だけの行事に成り下がっていたのです。
 そういうちぐはぐな現状を前にしてイエスは言われました。「乾いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。」と。これは言うまでもなく、水を意識しつつ、神さまのこと、永遠の命のことについてのお勧めの言葉でしたが、やっぱりそこを見ない人には理解できない言葉だったことでしょう。次の一段落の41節には、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。」現実のことしか考えない的外れな姿が、この先もずっと続くのです。
 流れに沿ってないのです。ですから意思疎通が図れないのです。テキストに描かれている人々のそんな的外れな姿を、私たちは十分に見ることができます。命のことを考えないこと、思いやりがないこと、想像力が足りないこと、それらはみなすれ違いのもととなります。それが単にお間抜けの域のうちは、笑って済ませられます。
 でもすれ違いの最たるものは神さまのこと、天のことを考えないこと、これです。これは下手をすると人間関係のみならず社会を壊すもととなるのです。学力とか知識とかが足りないという次元ではないのです。私たちにとってそういう見えるものさしも大切だけれど、最も大切なことは、神さまのことを・天のことを考えることです。つまり私たちが見えるものだけの中で生かされているのではなくて、見えないものの中にこそ考えるべき、見つめるべきことがある、それを第一にしようということなのです。その川の流れがイエスには見えていました。
 ですからイエスは「乾いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい」と言われたのです。まずはこのイエスの流れにつながろうというお誘いです。しかしつながって信じる人は、「その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」と更に言葉を続けられたのです。
 イエスのうちに、私たちの生ける渇きをうるおす命の水がある。けれども、イエスを信じる時、すなわち神さまの言葉を覚え、神さまが下さる永遠の命の中に生きることを覚える時、私たち自身の中からも生きた水が川となって流れ出るようになる、そうイエスは言われたのです。こんな小さな私でも、こんな貧しい私でも、いつかそのような者として変えられ、用いられるようになる、川から流れ出る愛と正義の水は隣人にいつか届くということです。喜納昌吉さんの歌う、心の中に咲かせる花とは、自分だけが輝く花ではありませんでした。副題に「すべての人の心に咲く花」とつけられています。イエスの思いこそはそうです。自分一人ではなくイエスにつながって、その私のうちからも生きた水が川となって流れ出、隣人に届くような者としていただきたい、心からそう願います。

 天の神さま、私たちが相手とつながり、社会とつながり、少しずつ変革してゆく力となるために、まずはイエスとつながってあなたの思いを知るものとならせて下さい。

 
 
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