20160522 『 ホッと、もっと! 』 ローマの信徒への手紙 8:12〜17
 

同じように、信仰の世界にもそんな言葉があります。こないだの教区総会でも伝道師になりたての人たちから聞きました。「自分のような欠け多き器を用いて下さって」とか挨拶するのを聞く度に、「そんなこと今更言わんでも、分ってるがな」といつも思ってしまいます。
 まぁ偉そうに言っていますが、本当は私も使っていました。多少便利な定型句なんですね。もちろん、決して嘘ではないのです。本当にそう思っています。思っていますが、普段はしばしば忘れています、で、突然プレッシャーを与えられるとつい言ってしまうのです。言わなくても良い言葉は、緊張の対極にあるのかもしれません。
 或いは日本人的な謙遜もあるのかもしれません。ただ「何にも分らないんです」とか「まだ信仰が足らなくて」とか、これも時々聞く訳ですが、どちらかと言うと、洗礼を受けてもう結構経つ人が言うんですね。それも大抵真面目で、傍から見たら、十分に良き信仰生活を送っている人が言うので、どうフォローしていいか困るんです。引いてしまうのです。
信仰ウン十年という人から「まだ信仰が足らないんです」とか聞かされる時、若い人たちは「じゃあ、自分たちが足らないのは当たり前だよね」と思ってしまうことでしょう。決して嘘ではない、本当のことと思っている言葉は、案外にやっかいです。
 友人の牧師に一人、すごく自信を持っている人がいます。彼は平気で言うんです。「俺の説教は最高やで。」本当はちっとも最高ではありません。でも彼はゆがんでいるのではなく、本気か?と思うほど、屈託なくそう言うのです。本来、客観性を見失ったら待っているのは破滅ですが、天性の明るさは、力になるのかもしれません。
 さて、今朝与えられたテキストにおいて、パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と15節で語っています。人を奴隷として再び恐れに陥れるとは、どういうことなのでしょうか?
 刑期を終えて出所した人がいるとします。自分の犯した罪を反省し、真面目に刑務所での生活を送って、心機一転出て来たはずでした。ところが、「自分はどうせ駄目なんだ」と本人も思い、周囲も冷ややかに見つめている。務めを終えてもなお、罪意識に包まれ、新しい一歩を踏み出すことができないとしたら、どうでしょうか。
 進藤達也という他教派の牧師がいらっしゃいます。前科7犯で三度も服役した元ヤクザだそうです。写真を見ると実にいい顔をしているんです。彼は前歴を隠しません。全く屈託がない。そして「いつでも、どこでも、人生はやり直せるんです。実際、元ヤクザで刺青があり、学歴も小指もない私が、再出発できたのですから」、そう語ります。定型句でない。真実を感じない訳には参りません。
 救い主を与えられ、聖霊を受けて教会は出発しました。それは「新しく歩み始める」ことの宣言でもありました。にも関わらず、古い思いや過去に留まり、そこから離れられないとしたら、それは神さまの思いと正反対の状態ではないですか。
 確かに、洗礼を受け、聖霊を受け、信仰生活を送っていても、本来の小さな自分をしばしば見ますし、愚かな失敗を繰り返す私たちです。クリスチャンになったからと言って何もかも一切合財が変わり、違う人間になれたりはしません。当然のことです。悔い改めて生きるとは、二度とつまづかず、後は立派な事をなして生きるということではないのです。
 「私は罪びとです」と私たちが告白する時、それは嘘ではなく、本当のことです。クリスチャンになったとしても、過去に犯した事ごとが書き換えられ、無くなってしまう訳ではありません。むしろ、十字架として一生負って行かねばならないこともあることです。
 けれども一方で、イエスの十字架と復活を通し、また聖霊の風を受けてもなお、「罪びとですから」と自分のうちに留まること・罪びと意識にはまっていることは、敢えて言えば、未熟で幼稚な甘えなのかもしれません。
 そんな思いは私も十分持っています。自分のうちに留まる方が、何となく楽ということもあります。春が来たのにずるずるコタツに入っているようなものです。もう十分外に出られるのに、生温かさから抜けられない状態。つまり自ら足かせをはめて、新しい一歩が踏み出せないこと。拒んでしまう、自ら潜んでいるもの。それが、パウロの言う、人を奴隷として再び恐れに陥れるということなんでしょう。
 そうではなく、パウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と声を大にして言いたいのです。進藤牧師のみならず、パウロこそは、到底自分はふさわしくないと自他共に認める存在の象徴であったからです。でも、パウロも救い主と出会い、聖霊に包まれ、新しい一歩を踏み出す力を与えられたのです。古い自分にのみ捕らわれて、いつまでもウジウジ過去を振り返るのでなく、喜びのうちに次を踏み出すこと。それは黙っていようとしても思わず歓喜の声を上げてしまう出来事です。それだから、この霊によって私たちは、アッバ、父よと呼ぶのです、そうパウロは語るのです。
アッバとは、実は赤ちゃん用語です。お母さんをマンマとか言うのと同じです。立てるようになった赤ちゃんが、お父さんを見つけて、満面の笑顔でアッバ、とーたん、と思わず声を上げながらヨチヨチ近づいて行く、そんな光景がパウロの脳裏にあったのでしょう。
 それはまさしく愛の光景と言えます。井上洋治神父が、愛の支配という文章を書いておられます。「無、天然の風、聖霊、神のデユナミス、神の国、復活のキリストといった表現が私の中で次第に一つの形を整えつつあったのと並行して、イエスの生涯を貫いている生き方、およびそれに結ばれているキリスト者の生活の在り方が、「神は愛である」というヨハネの第一の手紙の言葉や、いつも神を「アッバ」と呼んだイエスの姿勢によって鮮やかに位置づけられていくように思えたのである。神が愛であれば、神の支配は愛の支配に他ならないからである。」
 見えない神の愛をイエスは命をかけて生涯証しし抜かれました。神はイエスが地上を去り、天上に挙げられる時、一人子に代わって神を証しする力として、聖霊を下さいました。すべてが神の支配の下にありました。井上神父は、それを愛の支配だと表現なさったのです。
私たちにとって、新しい一歩を踏み出せる事はうれしいものです。また喜びがあればこそ、新たな一歩が踏み出せるとも言うのでしょう。私たち、父・子・聖霊の三位一体の力に信頼する者は、下手に謙遜な態度に留まるのでなく、もっと表現していいし、もっと伝えていいし、もっと求め願っていいのではないでしょうか。愛の支配のもとに生かされている訳ですから。
「表現」を英語でエクスプレッションと言います。エクスは「外へ」、プレスは「押す」という意味です。表現をするということは、「社会を変える方法」を手にするということだと、ある社会学者が述べました。外に押し出す、内なるものを表出することがエクスプレッション、表現です。しかしそれは、個人の内に秘された何かを書いたり描いたりすることではない、個人的思いを暴露することではない。そうではなくて、表現とは社会への違和感を形にすること、社会は変わりうると信じて動き出すことだそうです。
 パウロはイエスによってそのように変えられたのです。かつて熱狂的ユダヤ主義者として自分たちの社会の維持を懸命に守ろうとしたパウロは、イエスの福音を通して、社会は変わりうると信じて、足りないことは重々知りつつ動き出したのです。
 赤ちゃんは、おいしいものを口に入れてもらうと、全身で「もっと」を表現します。願い求めます。それと同じく、聖霊に導かれ、信仰に支えられ、私たちもまた次の一歩を求めるのです。ヨチヨチ歩きでいいのです。信仰は緊張ではなく、ホッとするものです。ホッとしなけりゃ福音じゃないと或る牧師が言いました。ホッと、もっと!です。



 天の神さま、あなたの愛に包まれ、素直に応答する者でありたいのです。足りないと勝手に謙遜するより、どうか私たちを外へ向かって導き、引き出して下さい。


 
 
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