20160529 『 目にはさやかに見えねども 』 ルカによる福音書 24:44〜49
 

 ペンテコステ、三位一体主日ももう過ぎたのですが、今日改めて昇天日のことを振り返ります。復活から40日目の出来事でした。その10日後がペンテコステ、更に一週間後が三位一体主日となります。私たちはそのどれもあまり関心を持ちませんが、カトリック教会は大きく扱います。特に昇天日です。この日こそがイエス地上における生活や働きの最後の日となる訳で、十字架でもなく復活でもなく、この日を分岐点としてイエスの救済の歴史が区切られたのでした。
 その意味では、昇天の出来事は、イエスにとって地上の生活からの卒業式と言えるのかもしれません。だからこそ、直前に弟子たちに向って、聖書に記されている救い主についての預言をもう一度語られたのです。それは、これも敢えて言えば、卒業式に当たっての、答辞とでも言うべき最後の言葉であったのだと思います。
 私は、神学部を卒業して、いよいよ任地へ赴くに当たって、予餞会で言われた神学部長の言葉を忘れることができません。「君たちの事は何一つ信用していない。だが、君たちの背後にある方を信頼している。」
 私たちが子どもや後輩を送り出す時、いつも十分に信頼できる者として安心して送り出せる事など、ほとんどありません。多くの場合、むしろ足りないことだらけで、心配や不安でいっぱいという事の方が普通ではないでしょうか。
 しかしそれでも、時が来れば、嫌でも送り出さない訳には行きません。その意味で、イエスの昇天は、ご自身の地上の生活からの卒業式であったと同時に、実は弟子たちを送り出すための、弟子たちの卒業式であり、訣別の時であったのです。
 英語で卒業式の事をグラデュエーションと言いますが、それは次の段階、グレードへ進む事を意味します。一つの段階を十分満たして終わりを迎えた、というよりは、多少足りなくても、更に次の段階へ駒を進める、新たな一歩を踏み出すということです。それを卒業という訳です。
 もし、イエスが昇天なさらず、ずっと地上におられたとしたら、どうだったでしょうか。それは弟子たちにとっても、他の人々にとっても、そして私たちにとっても最高にうれしい、安心満ちる日々だったでしょう。
 でも残念ながら、それは神様のご計画ではなく、イエスの真意でもなかったのです。それでは卒業できない状態、次の段階に進めない状況だからです。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の許しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる」、とイエスは改めてご自分に与えられた使命を語られました。そこまでがイエスが地上においてご自身で担われる業でした。
 それに続けて、エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる、と語られたのです。神様の福音を弟子たち自身がこれからは担ってゆく、その時が来たという訳です。
 今日のテキストの一つ前の段落を読んでも、最後の最後までイエスを疑っていた弟子たちがおりました。この世的、人間的に見れば、彼らはとてもイエスの信頼に足る存在ではありませんでした。にも拘らず、訣別の時が訪れたのです。次の一歩を踏み出す時でした。
 そんなにも足りない、貧しい弟子たちを連れて、イエスはベタニアの近くまで来られました。そして彼らを祝福しながら、天に上げられた、とルカは記しています。
「君たちのことは何一つ信用していない」と私たち卒業生は言われました。それに対して私たちは何も不服ありませんでした。異論もありませんでした。私だけでなく事実、その通りと誰もが思ったことだったからでしょう。
 弟子たちもまた同じだったと想像します。誰よりも自身のふがいなさを感じていたに違いありません。その彼らをイエスは祝福しながら、送り出されたのです。ボートを押せば、岸ではなく、ボートが押し出されて行きます。ボートに乗っている者からすれば、岸を押したのです。それと同じように、イエスはご自分が離れる事を通して、弟子たちを押し出されたのです。
 福音とは、ギリシャ語のユーアンゲリオンという言葉の訳ですが、それは「人を元気にする知らせ」と言う意味の「良い知らせ」です。弟子たちは足りないにも拘らず、イエスから、この「人を元気にする知らせ」を伝えるために、岸に残され、そこから出発するよう促されました。
 最後の最後までイエスを疑っていた弟子たちに、イエスがなさった最後の具体的な行動は、魚を食べる事でした。42節にあります。「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」
 本田哲郎神父がこんな事を書かれています。「私たちは宗教自体によって救われるのではなく、隣人(仲間)を必要としている人の隣人(仲間)になってゆくという隣人愛の実践によって、人との交わりを通して、日々の暮らしの中で、救いを得てゆくものです」、と。
 イエスはまさしく、それこそ最後まで、隣人を必要としている人の隣人になって、人との交わりを通して、日々の暮らしの中で、救いを与えてゆくという、人を元気にする知らせを自ら体現なさって、地上の役割を終えられたのでした。
そうして最後に語られたのは「父が約束されたものをあなたがたに送る」という約束の言葉でした。これは、イエス自身が姿を消される事に関係することでした。イエスは自分の行動を通して、自分で考え、自分で選び、自ら決断してゆく事の大切さを弟子に示されたのです。その手助けが父なる神様の約束されたもの、つまり聖霊だったのだと思います。聖霊は何ら頼りない弟子たちが心配だから自信をつけさせるために与えられたものではなくて、例え頼りなくても彼らが主の福音を受けて自分で考え、自分で選び取り、自分で判断してゆくための、後押しの力でした。
 この言葉を受け、祝福されて弟子たちはイエスとお別れしたのです。「君たちの背後にある方を信頼して送り出す」と私も語られました。その折何とも言えない満たされた、平安な気持ちになりました。例え、自分に足りないものがあるとしても、それを補い、満たして下さる方がいらっしゃる、後押しして下さるものがある、だから大丈夫という確信を与えられたのです。
 それだから、弟子たちもイエスと別れた後、寂しさに包まれてうじうじ、くよくよしたのではなく、大喜びでエルサレムに帰りました。エルサレムに留まるとは、引き続き、危険性があることでした。
けれどもこの時、彼らにはその恐れや不安を上回る、喜びが与えられたのです。それも「大喜びで」とルカは伝えます。福音書で「大喜び」という表現が用いられているのは、ここだけです。もう弟子たちはイエスと直接出会うことはありません。できません。イエスは彼らの目前からは姿を消されたのです。けれども、見えないという形の中に込められた主の愛の思いが確かに弟子たちを包んでおりました。私たちも同じです。目にはさやかに見えねども、私たちもまたそれを心で受け、待ち望むのです。
 

天の神様、主の昇天を通して、私たちも送り出されました。そして約束の聖霊も与えられました。この愛に包まれて、不満や不安から、希望と喜びへ変えられてゆきますように。

 
 
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