20160605 『 未知のQひとり旅 』 ヨハネによる福音書 3:1〜15
 

 昨年クリスマス、15年飼った犬が亡くなって、朝夕の散歩に行かなくなったら、半年で5キロ体重が増えてしまいました。これはいかん、歩かなならんと決意して、万歩計を買って来ました。実は万歩計なんておじさんくさいと密かに敬遠していたんですが、もはやそうもいかんです。
 それに比べると、京都・バプテスト病院でチャプレンを務める宮川裕美子先生は違います。宮川先生、チャプレンに就任した時に、「歩くことが多いだろうから」と言って、友人がお祝いに万歩計をプレゼントしてくれたのだそうです。そしてその時、「イエスの万歩計」と題した文章を書いています。
「最初の頃は病院施設が迷路のようで、無駄な歩数を重ねていました。一年経った今は働きにも慣れ、牧師室から出て行くことも多くなり、各施設へも自由に歩き回っています。或る時、その歩数を見ていて、ふと思いました。
 一日の中で人と出会うために出かけて行くその歩数は、全体のどれくらいなんだろうか?
 主イエス・キリストの日々は歩いて出かけて行くものでした。町や村を残らず回って、とは、そこにいるすべての人々に出会うためだからです。出かけて行った先で出会うすべての人々がイエスの訪ねるべき人々だったのです。イエスが万歩計をつけていたとしたら、その一日の歩数はどれくらいだったのでしょうか。イエスの万歩計を思いながら、医療団の働きのなかでより多くの人に出会うため、自らの歩数を今日も重ねて行きたいと思っています。」
 うわちゃ〜、と思いました。私などは、ただこれ以上ビール腹にならんようにと思っている程度に過ぎません。自分のためだけに万歩計をつけている私と、イエスを想って、一日の中で人と出会うために出かけて行く歩数は、どれくらいかと問われる宮川先生、えらい違いです。でも、良い視点を与えていただいて感謝です。宮川先生の問いかけは、私にとって未知のものでした。
 さて、今朝与えられたテキストは、ニコデモとイエスの対話の箇所でした。ニコデモという名前の意味はよく分かりませんが、ギリシャ語の名前で、よくあった名前だったようです。彼はファリサイ派の偉い人でもあり、また同時に議員でありました。それも最高法院サンヘドリンの議員でした。これは全体で70人で構成されている議会で、ですから誰でもなれるものではなかったのです。恐らくは相当の資産家でもあったことでしょう。対話の中で、自ら年寄と名乗っていますから、年齢的にも既に高齢者だったと思われます。
 そんな地位、身分の人がイエスを訪ねてやって来たのです。2節に「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と告白しているように、イエスが行った数々の奇跡を目の当たりにして、何としてもイエス本人にその思いを伝えようとしてやって来た訳です。ただし、ファリサイ派の人ですし、今言いましたように高い地位にあった人ですから、当然周囲にはばかられた。それで夜こっそり訪ねたのでした。
 それはそれでなかなか凄いじゃないかという出来事ではあったのですが、実はニコデモとイエスの会話はどうもかみ合わなかったのです。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」と10節でイエスから言葉をかけられています。それは嘆きと言うよりは、半ば怒りを含んだ叱責に近いように感じられます。
 何が分からないのかと言うと、ニコデモは奇跡を見たのでやって来たのです。イエスが奇跡の業を行われたとしたら、そこにはそれを行うだけの理由がありました。決して力を誇示されたのでも、人気取りのためのパフォーマンスをされたのでもない。だからこそ、例えば病気を癒された人に対して、その事を人に言わないよういつも厳しく戒められました。奇跡の業の中に込められている意味を受け取らず、表面の出来事だけが広まることを警戒されたからです。ですから今日の一つ前の段落23節以下にも、こうあります。「イエスは過ぎ越し祭りの間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。」
 こうして奇跡の力を見たからという理由で、しかも自分の立場を守るため、夜こっそりやって来たニコデモに、イエスは大事なことはそんなことではない、と言う話を繰り返し語ったのでした。このニコデモとの対話の中に「はっきり言っておく」という言葉が3回も使われています。そもそもファリサイ派は、規則や律法、或いは伝承を守ることを第一とし、神さまの救いに与かれる者とそうでない者を厳格に分けて来た人たちでした。隠れて密かに訪ねてきたニコデモ、しかもその訪問の訳を聞いて、彼がなお抱えていた頑なさ、うしろめたさ、ほの暗さを鋭く見抜かれたイエスだったのです。
 それはちょっときびし過ぎはしないか、と思わないでもありません。ニコデモの身分を考えれば、自らやって来ただけでも偉いんじゃない?少なくとも他のファリサイ派の連中に比べたらマシな人ではないかとも思います。
第一、 私たちだって同じなのです。凄い力を見たなら、そこに心を奪われてしまい
ます。どうしても具体的にしか、現実的にしか物事を見ることができない私たちです。ニコデモのことを非難することなどできません。
 しかし、この物事を具体的にしか見ることができない弱さが、実に問題であるのです。そうでありながら、その事を正しく伝えることが出来ません。つい現実以上に大げさにしてしまったり、逆に過小評価して小さくしてしまったりは日常茶飯事です。その見える世界だけにどっぷり浸かって生きていることから変えなければならない、イエスはそう語ったのです。すなわち、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」ということです。この3節の言葉は、言うまでもなく心の転換を指していますし、精神的な意味合いにおいて語られた言葉であるのは言うまでもありません。
 けれども、ニコデモは分かりませんでした。「年とった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」そう答えたのです。マンガの応答です。言葉を知らないのではありません。自分の世界だけに関わると、誰でもそうなるのだと思います。
 イエスが繰り返し語った「永遠の命」。それは未来永劫何百才も生きる、この世的な意味での命ではありません。修行を積んだ一部の人だけに与えられる特別なご褒美の命でもありません。それはもしこの世のことだけになっている心の向きを変えるならば、どんな人にも見えて来る、見ることができる神の愛の姿であるのです。すなわち、奇跡とはまずあり得ないことが起されることを指すのではなく、今まで見えなかったものが見えて来ることを指すのです。
 「あなたは何を見ているのか?」イエスは私たちにとって、未知のこの問いかけ、クエスチョンを携えて、一人私たちに向かって歩まれます。未知のQ,一人旅です。神さまが私たちの人生に介入されていることを知らされる瞬間です。この問いかけを頂く時、その人はイエスの一人旅に導かれ、向き合うようにされます。イエスが起す業は、常に一対一でなされるからです。その時もう世間一般、この世的価値観の中に逃げることは多分許されないのです。ニコデモはその問いかけを受けました。
 ですからニコデモは、この後、イエスの言動に反感をもって逮捕しようと画策した祭司長やファリサイ派の人々に対して、「まず本人から弁明を聞くべきだ」とたった一人、敢然と意見を述べる人と変えられました。また、十字架の出来事のあと、身の危険を恐れず、没薬と沈香を携えて駆けつけたのは、このニコデモでした。
私たちもイエスの未知のクエスチョン、問いかけに応える者となりたいと思います。


天の神さま、あなたの視点を与えて下さい。命の問いかけを与えて下さい。

 
 
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