20160612  『 酸っぱいは成功の素 』 使徒言行録 2:22〜36
 

京都の大学に行っている息子が、小さい頃よく言っていました。「僕はお母さんのおなかの中から外を見ていた」。本当かなと思っていたら、長谷川義史さんが「おへそのあな」という絵本を描いていました。読みます。
 いかがでしょうか?とっても暖かくて、とっても希望が詰まっている、未来に向けた絵本だったでしょう?私の好きな絵本の一つです。
 さて、今日与えられたテキストには、ペトロが行った説教が記されていました。このペトロの説教は、弟子たちに聖霊が与えられた後で行われた初めての説教でした。ですから教会初の説教と言ってもいいでしょう。
 ちょっと長かったですが、この初の説教で、ペトロは一体何を人々に語ったのでしょうか?それは第一に、36節に「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを」とあるように「イスラエルの人々がイエスを十字架にかけたのだ、ということだったんです。
 しかも殺したそのイエスとはどういう人だったかというと、22節で「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」と言っているように、神から遣わされた方を、23節「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」ペトロはこういう風にはっきりと示したのでした。
 実際、イエスをどうするかという裁判において、そこに集まったエルサレムの人々は違う犯罪人のバラバを赦して、イエスを十字架につけろと叫び続けたのでした。その結果、この人は何も罪は犯していないと自分で分っていた総督ピラトが困り果てた揚句に、半分やけくそのように十字架刑と決定したのでした。
 ですから、ペトロの話はまさしくその通りであって、「あなたがたが十字架につけて殺したのだ」と言われたイスラエルの人々は真っ青になったことでしょう。とんでもない事をしでかしてしまったという恐れが最初に与えられたに違いありません。
 けれどもペトロが語りたかった一番のことは、実はその後にあったのです。24節に「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」とあります。また36節の続きには「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」とあります。ペトロは、あなたがたは、大変大きな罪を犯したと宣告しましたが、その罪を補って、或いはまったくひっくり返して、全然思いがけない事を神がなさったのだという事を伝えたのです。
 ペトロは皆さんもご承知のように、少々お調子者で、自分こそは弟子の中で一番偉いと信じていた人でしたし、一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないとは言いません、と大見得を切った人でした。でもイエスが予言された通り、彼は3度も知らないと否定して、イエスを見捨て逃げ出してしまった人でした。つまり誰よりも、自分は主を裏切ったという深い後悔を抱いた人だった、しかしそれだからこそ、イエスが復活され、また聖霊を下さって、ペトロを筆頭に裏切った弟子たちを赦して、なお用いて下さったという恵みと感謝に最も満ち溢れた人でもあったのです。
 本来十字架につけられるとすれば、自分たちだったかもしれない。でも神さまは実際十字架につけられたイエスをこそ復活させられ、引き上げられた。自分も含めて人々がなした大きな罪を無効として下さったのです。それがペトロの一番伝えたい事柄でした。そしてそれが教会初の説教の内容でした。
37節に「人々はこれを聞いて大いに心を打たれた」とあります。これはじ〜んと感動したということではありません。むしろ大変はショックを与えられたということであり、ぐさっと心を刺されたという深い思いを表しているのです。
 教会初の説教は、あなたがたは罪を犯した、間違っていたという指摘がなされ、しかし神がそれをひっくり返して神の正義と愛が打ち立てられたという宣言がなされたものでした。そして人々はそれを聞いて大いに打たれ、悔い改めた。まさにその通り、自分たちが間違っていました、と受け入れたのです。こうしてその日、3000人ほどが仲間に加わったと41節にあります。
 自分が正しいと思っていたら、そうではなかった。自分たちが正しいと思ってイエスを十字架につけたのだが、自分が正しいと信じていたことこそ、間違いであり、罪だったことをこの人たちは認めたのです。そして人々は神のなさる愛と正義が人間の過ちを打ち壊し、新たな道へ押し出すものと知らされました。これが教会の出発、原点となりました。
 そして教会は今もその出発点、原点に置かれます。日本キリスト教団は今月24日に創立75周年を迎えます。ペトロさんたちに聖霊が与えられ教会が生れてから2000年以上が経った事を思えば、私たちの歴史はまだまだ小さなものです。それより何より、初の説教でペトロが語ったことこそが、教会の出発、原点であって、もしもそれをうっかり忘れるなら、何年というような事を誇るのは全く意味がありませんね。
 どの国のどの教会であれ、いつもその時代時々の課題がありました。良いこともあれば、悪いこともあったでしょう。でもこれまで歴史を重ね歩んで来た人々は、「自分が間違っていた」事を告白し、正しいのは神さまだったと繰り返し確認しながら、歩んで来た、その端っこに今私たちも連なっているのです。
歴史を振り返るのは大事な事です。でも過去に浸ってはなりません。もし、昔が良かったなら、かえってそれを未来につなげて行かねばなりません。最初に「おへそのあな」という絵本を読みましたが、教会はいつも何時の時代も、未来を思い、神様の未来に賭け、そこに導かれて歩むところです。酸っぱいなあと思える失敗の数々は、未来への成功の素です。
 松岡正剛さんという音楽雑誌編集者の方がこう述べています。「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。」と。
 失敗した時、私たちは悲しくて、つらくて、恥ずかしくて、酸っぱくて、声も態度も小さくなります。消えてしまいたいほどです。でもその「弱い」状態は、ピアニッシモという、欠くことのできない大切な人生の要素なのです。
 よく信仰生活は、後ろ向きにボートを漕いで進むようなものと言われます。つまり私たちは行き先を見ずに、失敗を見ながら、先を知らずに進むのです。ペトロたちはイエスを裏切った深い後悔に捕らわれました。それで終わっていたら残るのは嫌な過去ばかりで、次はなかったはずです。でも主の復活と聖霊の後押しによって、弱さは未来へ移され、新しく歩き出しました。過去を乗り越えることができたのです。私たちもそうありましょう。


天の神さま、私たちの新しい歴史を大胆に導いて下さい。

 
 
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