20160619  『 外野の夜明け 』 使徒言行録 13:1〜12
 

前任の川上盾牧師が、私の前任の石橋教会に来てくれた時、「塔のガラスの十字架がええねぇ」と何度も言いました。また彼は、私が土佐教会にコンサートに来てくれた時には「高知って、空が広いんやね〜」。桂浜を案内した時も、「高知はホンマに青くて広い空やね〜」そう言ったのを覚えています。彼はいつも空を見上げる人なのでした。私などは、逆に何か落ちてへんかと思って、下ばかり見て歩く方なので、つくづく違いを感じます。ともあれ、こうした言葉は、当事者に改めて意識をもたらす言葉、光を照らす言葉だと感じる次第です。
 さて、今日与えられたテキストは、パウロとバルナバがアンティオキアの教会から選ばれて宣教の旅に出発し、最初の出来事が描かれていました。これこそ記念すべき第一回目のパウロの伝道旅行となります。
 ところがその最初の場所、キプロス島にユダヤ人の魔術師がいて、偽預言者でもありました。この不審人物がキプロス島の地方総督に取り入ろうとしていたのです。
なにしろ第一回目の伝道旅行、そして最初の到着地キプロス島。いかにも二人の心は燃えていたでしょう。さぁ、やるぞ!それはもう伝道の思いに満ち溢れてやってきたに違いありません。バルナバにしてもパウロにしても、持っていた能力を存分に振るって、できる限りのことをしたいと願っていたことでしょう。そこに登場した魔術師に対して敢然と立ち向かおうとしたのは当然の成り行きでした。
 しかし、今日のこの出来事に思いを巡らし、私たちが一番忘れてはならないのは、聖霊によるという言葉です。二人の個人的な思いではないのです。彼らが自分の思いで、何か手柄を立てるためかのように出かけてきたのでは、ないということです。またその役割においても、自分の計画や算段でなしたのではないということなんです。
 まずアンティオキアの教会において、聖霊が告げたと2節にあります。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」こういう聖霊の働きがあって、二人は選ばれ出発しました。
 それは4節にも再び記されます。「聖霊によって送り出された二人は」、とある通りです。そして魔術師と相対したパウロですが、9節にも再度、「パウロとも呼ばれていたサウロは聖霊に満たされ」、とあるのです。著者ルカは繰り返し、聖霊に導かれかつ後押しされて二人がこの伝道に着手したことを伝えたのです。
 かつて反キリスト教の筆頭として迫害を続けたサウロでした。思いがけずイエスと出会って変えられました。しかしそれから何年も経った訳ではないのです。言うならばそれはついこの間のことでした。その頃の彼は、ユダヤ教の熱狂主義者として、その意味では当時も情熱に燃えて立っていたのです。でもそれはすべて自分の思い、人間の思いによるものでした。決して神の思いによってではなく、人間の打算と計画によって行動していたのです。敢えて言えば下向きでありました。
 けれども今や彼は、かつてのサウロではなかったのです。ただただ神さまに聞き、聖霊に包まれ、ひたすら純粋に福音伝道のために用いられる人となったのです。上を仰いで働く人とされました。そしてこの時から彼はサウロではなく、パウロと呼ばれるようになりました。
 彼が魔術師をにらみつけて言ったというその言葉とは、「今こそ、主のみ手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」というものでした。一見厳しい言葉ですが、これこそはダマスコへの途上でパウロ自身に与えられた経験だったのです。その出来事を通して彼は真の自分を見つめ、神に聞く人へと変えられた経験でした。
 ですから憎悪にかられて糾弾したのではありません。にらみつけと訳されていますが、直訳すれば「じっと見詰めた」のです。時が来るまで、ともあります。魔術師をも導くべく自らも時を経て、じっと神さまから見詰められ変えられたのと同じ出来事を与える人となった。目先のことで一喜一憂するのでなく、ゆったりと神さまの力に委ねつつ、働くという働きを身につけていたパウロでした。
 
アメリカの詩人エリザベス・ディキンソンが『天国』という詞を書いています。
 私は荒野を見たことがない
 私は海を見たこともない
 でもヒースがどんなものか 波がきっとどんなものか知っている
 私は神と話したことはない
 私は天国へ行ったこともない
 でもそれがどこにあるのか知っている まるで地図をもらってあるように

 パウロの業を見た総督は、「信仰に入った」と12節にあります。そこには、総督が「主の教えに非常に驚き、」という言葉が入っています。第三者がまじかで見れば、パウロがなしたのは魔術師に対する叱責だったはずです。しかし、総督はそのパウロの叱責の中に、まだ見ぬイエスの教えを受け取ったのです。 
 バルナバもパウロもこうして聖霊によって自分の力ではなく、他者のために語る者とされました。更に実はここにもう一人助手のヨハネがおりました。ヨハネについては特にここでは何も書かれていません。が、彼がいたからこそパウロたちの働きが目撃され、証しされました。このヨハネはバルナバのいとこで、マルコとも呼ばれていた人です。そしてこの人が福音書を記したと言います。それがマルコによる  福音書です。こうして一人一人がそれぞれの賜物に応じて用いられていったのです。
主の福音が語られるところに、光が照らされます。キプロスには世界で最も古い教会が建てられ、今も働きを続けています。それまでは多くを知られてはおりませんでした。中心でもありませんでした。照らされて、夜明けの時を迎えたのです。
 思えばイエスの働かれる所、出会われた人々は、皆が皆、それまでは片隅に追いやられ、忘れ去られたようなところや人々ばかりでした。云わば外野の人たちでした。でもイエスと出会って、光が照らされ、夜明けを迎えたのです。パウロたちの働きもそれに倣い、事実福音が語られるところで、一つ一つ課題が明るみに出され、変えられてゆくきっかけとなったのです。
 連れ合いを亡くした女性が、13年後、出会いを与えられて再婚しました。その結婚式で、女性は出席していた、やはり離婚した友人の女性にブーケを手渡しました。司式をした神父が翌日のミサでこのことを紹介されました。「彼女はあなたもきっと試練を乗り越えて幸せになれる、そういう思いを込めて友人にブーケを手渡した。渡されたのは花じゃない。福音です。共感の思いです。これがキリスト教です。あなたの気持ちがわかる、という福音を伝える、イエスのサポーターの生き方です」こう神父が話すのを聞いて、この女性は自分のことだったのに感動したというのです。
 私たちは自分の力で、世のすべてを知ることはできません。普段はついつい注目される内野だけを見てしまいがちです。でも聖霊が照らして下さるので、バックの世界を知らされます。教えられます。空が青いと言われる時、促されて自分も仰ぎ、改めてその青さをかみしめるようなものです。
 自分の力で何かをしようと無理を重ねるなら、人は傲慢さを抱え込むことでしょう。或いは逆に自分の限界に落ち込んでしまうことでしょう。でも主の信仰は、私たちのそんな勝手な思い込みを打ち砕き、思いがけない新しい道筋を示すのです。一人一人に新しい夜明け、外野の夜明けが訪れますように。

 天の神様、私たちはあなたが下さる聖霊によって、照らされる世界を知ります。感謝です。私たちも聖霊に促され、外野を照らす者とならせて下さい。
 

 
 
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