20160703  『 愛を知らなければ解けない謎 』 ヨハネによる福音書 5:31〜36
 

橋下徹さんが大阪市長だった頃、一人の小学生(六年生)が「彼は凄い政治家だ」という文書を或る新聞に投書したことがあります。少年は、「橋下さんは平成の伊達成美(しげさね)だ」と評しました。成美は伊達政宗の家臣ですが、私はどのような人物かよく知りません。ただ敵が多くても何も気にしない、そこが橋下さんと他の政治家の違いだ、と書いてありましたので、伊達成美という人もそういう人物だったのだろうと想像します。
 いつの頃からだったでしょうか。政治の世界で、「強いリーダー」が待望されるようになりました。東京都知事選挙候補にまつわる都民へのインタビューで、「真面目な人がいい。もう知名度の高い人や芸能人はこりごり」と答えた人がいて苦笑させられましたが、世界を見渡しても、アメリカといい、フィリピンといい、少々物議をかもそうが、言いたいことをずばっと言い放つ人が注目を集めています。
 しかし、まさにそここそが最も問題なのだと思います。「政治家とは、リーダーとは何ぞや?どんな自分であるべきか?」この問いかけをよく考えなければなりません。自分と違う意見を持っている人も、国民であり、地球市民であるのです。敵ではないはずです。かつての戦国武将は意見の違う者、自分に従わない者を切り捨てても構わなかったでしょうが、民主主義の現代、政治家は、むしろ違う意見、少数意見をこそきちんと聞かなければなりません。
 国であれ、何であれ、人間が作る組織、共同体は、たった一部のリーダーで構築されるものではなく、多くの一般人によって構成されるのです。勇猛な戦国武将に切り捨てられた者たち、強いリーダーにこき使われた人々の思いはいかがばかりだったか。物言えぬ大多数の庶民たちの苦しみを想像すべきです。それをまず知ることが、現代を生きる私たちの務めであり、学びだと私は思っています。
 前置きが長くなりました。今日与えられたテキスト、この一段落には「イエスについての証し」という小見出しが付けられています。言い換えれば、「イエスとは、救い主とは何者か」という問いかけであるのです。ところが読んで分かるように、それを語っているのは、ほかならぬイエス自身なのです。確かにイエスが自分に与えられた役割、務めについて語っているのですが、岩波書店版聖書の「イエスを証しするもの」という小見出しの方が適切だと思います。
 しかも、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない、という強い言葉で言い表されているのです。これは大変重要なポイントです。人間的要素ではないのです。人間的要素であれば、例えば私たちの誰もが、可能であるなら、実現できるなら、一度イエスと出会って見たいと望むことでしょう。
 イエスの、その容姿について、これまで欧米の画家たちは、基本的に相当個人的希望に沿った絵画を描いて来ました。例えば、背が高くて、スレンダーで、長髪の似合うイケ面のイエスです。大方、その眼差しは優しく、見るからに慈愛に満ちた絵画がほとんどではないかと思います。
 気持ちは分からないではありません。恰好悪いよりは、格好の良いイエスを望むのは、無理もない希望でしょう。けれども、それはあくまで個人的願望であって、聖書を通す限り、イエスがどのような風貌であったか、全く分からないのです。
 もし、イエスに会えるとして、これまで勝手に想像して来たイメージと、もし相当に違ったら、信仰が続くでしょうか?続かないとしたら、それこそそれは信仰ではないと言えるでしょう。私たちは、私たちの願望でイエスに従っているのではなく、イエスが語り、なさったこと、そしてそれを通して表そうとされたこと、伝えようとされたことに聴き、従おうとしているのです。
 生身のイエスが、もし願望通り恰好良い人だったとしても、それは救い主としての生涯とは何の関わりもないことです。例えば身長185cm、スリムなイケメン、見栄えも良いし、優しいお方。そういう条件など救い主として何も必要ないのです。むしろ現実のイエスに対する当時の批評は、彼は大工ではなかったか、マリアの息子ではなかったか、名もなきガリラヤの人ではなかったか、そんな「見下し」のイメージばかりでした。もちろん、それもまた救い主の条件として何ら関わりのないものです。
 一番の中心を見つめなければなりません。バプテスマのヨハネは、イエスに先だって、真理を証ししたとイエスは語りました。身長185センチでイケメンで、大工でマリアの息子で、というような事を証ししたのではないのです。イエスという人が永遠の真理を証しする人だ、ということを証ししたのです。
 それがバプテスマのヨハネの務めでした。しかし残念ながら、そこまででした。それは一時輝くともし火に過ぎませんでした。イエスはヨハネに勝る証しをなしました。もっと大きな真理についての証しを語ったのです。この肝心なこと、つまりイエスがその生涯、命をかけて証ししたことを私たちは見つめなければなりません。永遠の命、すなわち、神の愛が私たちを包んでいて下さる、そのことを知るということです。
 この最も中心的なことを見つめないで、表面のことだけ捕えたり、側面ばかりを気にしたりすることが、この世では何と多いことでしょう。イエスは痛烈に批判しました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」と。文字を読むことに没頭し、規則を守ることばかりに気を取られ、肝心の神の思いを何ら受け取らないとすれば、それは信仰ではないことでしょう。
 イエスは祭司になろうとしたのではありません。人々を導く強力な指導者、リーダーを目指したのでもありません。ただただ、神さまの深い愛について語り続け、伝え続けられたのです。
 アマチュアという言葉を訳すると、プロフェショナルではないと言う見地から、「素人」ということになります。このアマチュアという言葉の語源はラテン語の「アマトール」という言葉です。で、アマトールとは、そもそも「愛する人」という意味でした。プロはそれでお金を稼ぎ、飯を食って行く存在です。しかしアマチュアは、お金に関わらない、ただ愛する人であるのです。
 イエスは、プロの祭司や政治家ではありません。アマチュアです。しかし、最も神さまから託されたことを証しし抜いた生粋のアマチュアです。イエス、救い主が何者であるか、何故救い主であり得るか、この問いかけを理解するには、繰り返しイエスが語られた神さまの愛について聞く他はないのです。愛を思わず、想像せず、この世的価値基準で図るうちは、救い主についての問いかけは謎のまま終わるに違いありません。しかし幸いなことに私たちは、神の愛について繰り返し教えられて来ました。それが、今年2016年度の年間聖句に選んだミカ書6章8節に、あまねく述べられています。それを読んで終わります。
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

   天の神さま、あなたの愛についてもう一度固く教えて下さい。

 
 
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