20160717  『 失敗より怖いものあり 』 ヨハネによる福音書 6:16〜21
 


 本格的な夏がやって来ました。夏と言うと、プールだとか花火だとかの定番がありますが、お化け屋敷もその一つですね。私、お化け屋敷が怖いんです。人間がやってると頭で分かっていても、それがいつかまでは分かりませんから、びくっとします。情けないので行きません。
 さて、今日のテキスト、ガリラヤ湖での出来事です。この出来事は、マタイによる福音書と、マルコによる福音書にも記されていますが、いずれも5000人の給食の出来事の後の出来事として記録されています。
 マタイとマルコには、イエスが弟子たちを強いて舟に乗せた、とあります。そして御自分は一人祈るために残って山に登られた、と。これはヨハネによる福音書にも書かれています。5000人の人々にパンを配られるという大きな出来事を通して、人々はイエスを称賛しました。目に見える出来事は、確かに人々の心を高揚させます。そればかりか、この世的に祭り立ててしまうことさえあります。
 実際、この時人々は、イエスを王にするため連れて行こうとした、と記されています。その勘違いの興奮から逃れるために、イエスは弟子たちを先に舟に乗せ、御自分は祈るため、一人残られた訳です。弟子たちは、多分、その主(あるじ)の思いを分かってはいなかったと思われます。
 さて、弟子たちを乗せた舟が、岸から25ないし30スタディオンばかり、すなわち4〜5キロほどの距離の辺りまで出たところで、天候が急変しました。実はこのガリラヤ湖では、しばしば当然突風が吹いて、波が荒れるということがよくありました。海面下200メートルという位置関係から起こり得る気象現象だったのでしょう。
 弟子たちの中にはペトロを始め、もともとガリラヤ湖で漁師をしていた者が何人もいましたから、元漁師以外の弟子たちは少々慌てたかもしれませんが、経験者がいることで、湖での天候の急変には、それほど驚かなかったでしょうし、むしろ想定の範囲内の出来事として、平静に受け止めたものと想像します。
 マタイ、マルコには、漕ぎ悩んだという説明があります。天候の急変には驚かなかったものの、激しい風と波自体は、舟の進行にはやっかいではあります。漁師経験者たちを中心に、何とか舟を進めるべく、やっきになったことでしょう。
 その渦中に、湖の上を歩いて近づいて来られた主(あるじ)イエスの姿を発見したのです。これには仰天しました。マタイ・マルコでは、弟子たちは恐怖のあまり「幽霊だ」と言って大声で叫んだ、と記されています。ヨハネの記述は、それに比べると、かなり短くて、「彼らは恐れた」とだけ表現されています。
 ガリラヤ湖の突風は、体験上よく知っていて、不安でも何でもなかった彼らが、イエスが湖の上を歩いて来られたことには、相当の恐れを抱いた訳です。こちらは確かに想定外の出来事ですから、弟子たちが仰天したとしても無理はありません。ただ、天候急変によって懸命になっていた彼らの元へ主(あるじ)が来た訳ですから、思い掛けない主(あるじ)の出現に、少々驚いたとしても、本来イエスが来て下さったことを喜ぶべき場面だと思うのです。
 この際、なぜイエスが湖の上を歩けたか、どのような科学的分析が可能か、というような問題は、脇に置いておきましょう。水上歩行の奇跡を伝える事が第一であったのではないのです。そんなことがあるはずはない、あり得ないなどと言い出すならば、そもそもその前の出来事、つまり5000人の給食の出来事だって、あり得ないという事になってしまいます。
 事実かどうかは別にして、3つの福音書がこの出来事を記した意図を受け取りたいのです。弟子たちこそ、主(あるじ)に最も身近な場所で、5000人の給食の出来事を、つぶさに見たのですから、信じがたい力を主が持っておられることを、つい直前に知らされたはずでした。
 にも関わらず、湖上に現れた主を見て、幽霊だと恐れおののいた弟子たちだった訳です。あまりにも想定外だったからでしょうか?それは確かにそうだと思います。想定内のこと、経験済みのことには私たちは落ち着いて対処することができます。しかしそうでない場合には、慌てふためき、不安や恐れからすっかり浮き足立ってしまうのです。実はそれが大事な事だという場合なのに、気づかないで不安や恐れの中に埋没してしまうことになるのです。
 多分、誰だってそうなるのでしょう。弟子たちもそうでした。しかし大事なのは、その弟子たちに語りかけられたイエスの言葉なのです。「わたしだ。恐れることはない。」そこには、大丈夫だ、心配するな、という思いも込められていたことでしょう。
 似たようなことがあります。誰も居ないと思い込んでいた家で思いがけずいた家族から声をかけられて、「うわ、びっくりした〜」めちゃくちゃ驚いたことはありませんか?
 家族を見て驚くのも失礼な話ではありますが、私は経験あります。自分を見て怖がっている弟子たちの様子は、或いはイエスにはちょっと苦笑を禁じ得ない光景だったかもしれません。こいつら、アホやな〜と思われたでしょうか。いずれにしても、今日のテキストで一番大事なのは、この「恐れることはない」というイエスの言葉にあるのです。
 「べてるの家」の向谷地生良先生(北海道医療大学の先生でもある)の文章を読みました。りんご農家の木村秋則さんは、作物の中でも最もデリケートなりんごを無肥料、無農薬栽培しておられます。その体験の中で、りんごと虫や病気の関係を発見するのです。虫や病気はりんごを枯らすために襲って来るのではなく、リンゴの中にある人間の体に有毒で過剰な肥料成分に集まって来るのだというメカニズムを解明されたのです。だから無肥料、無農薬のりんごや野菜には虫も病気も寄って来ない。無肥料で育った作物は、自らしっかりと大地に根を張り、必要な栄養分を自ら確保しようとする。その強さは、一般の作物も同様なのだそうです。
 その事を紹介された上で、向谷地先生は、人間に与えられるストレスも当てはまると言われるのです。「緊張をどう処理するのかという、その適切さ」が大事なのだとして、本来の私たちが持っている「生きようとする力」を見失い、現状を否定的に捕え、自分を責めたり、リスクを回避するために安楽な方法に頼ると「病気が寄って来る」ということになる。病気になったからと言って、必要以上に薬に頼ると、さらに生きづらさが増す、と先生は言われるのです。一般にストレスを溜めるなとよく言われます。そしてストレスを溜めないための様々な対策法が論じられます。けれどストレス自体を否定する必要はないと先生は指摘されているのです。
 今日のテキストを読んで、ガリラヤ湖で弟子たちに与えられた出来事が、そうだなと思わされます。荒波は予想されたストレスでした。これに過剰に反応するなら、生きづらくなるのです。そしてしばしば、諦めに通じます。その方がずっと怖いのです。
 保険会社のコマーシャルで、普通に歩いているようで、実はその足元は真に細い綱の上だった、というものがありました。或いはボーリング場のレーンを人が歩いていて、たまたまボールがその人にぶつからずに済んでいるだけで、一歩間違ったら一巻の終わりというコマーシャルもありました。もしそんなふうに人生を見てしまうなら、保険は絶対必要なものに違いありません。人によっては恐れの余り幾つも入る人もいるかもしれません。
 でもそうならないよう、過剰に不安に陥らないよう、どんな時にも主イエスが共におられ、「恐れることはない」と声をかけ続けていて下さる、そのことが今日のテキストから示されています。それは、救いの言葉もまた私たちにとって、想定外のものだということです。そのことを覚えたいと思うのです。
 以前ある方が手術をされることになって、手術の前日お見舞いしました。「やっぱり怖いです」とかなりおびえておられました。失礼ながら、脳や心臓ではなく、足の手術です。でも怖いのです。でその方、「こういう時は、いつもイエス様〜、イエス様〜って、祈ってるんです」と言葉を続けられました。
 私は「僕も全く同じですよ」と答えました。そしてそれで良いのだと思いました。パウロはコリントの信徒への手紙の中で、「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」と述べています。
 私たちは様々なストレスを生活の中で受けます。途方に暮れることは度々です。時にもう終わりか、後がないようなピンチにも立たされます。パウロもそうでした。しかし「途方に暮れても失望しない」とパウロは述べました。岩波書店版聖書は、「途方にくれながらも」と訳しています。もしかしたらパウロの意地なのかもしれません。でもそればかりではなく、パウロこそ、ストレスやピンチの度にイエスの名を呼び求めたことでしょう。そしてそこには彼が呼び求める前から「私だ。恐れることはない」とパウロの傍らで語りかけられる主がおられたのです。いないかと思われたけれど、そこにおられたのです。
 もちろん、イエスは同じように私たちにも同じ言葉をかけて下さるに違いありません。その確信があればこそ、私たちは土壇場でも諦めないよう、強められるのです。失敗より怖いのは「諦め」です。諦めは終わりを意味します。ところが私たちの主イエスは、十字架と復活の出来事を通して、終わりではなく、始まりだったと教えて下さいました。途方に暮れることはありますけれど、諦めることも、失望することもないのです。
 面白いコマーシャルがあります。徳光和男さんが言うのです。「私には夢があります。希望があります。そして持病があります。」
 私たち途方に暮れながらも、夢と希望を持てるのです。


 天の神さま、どうしたら良いか分からないことが、次々と与えられる私たちの人生です。しかしあなたはすべてをご存じで、主イエスを通して「恐れることはない」と支え続けて下さいます。どうか一切をあなたに委ね、平安な心を与えて下さい。


 
 
 日本基督教団 東神戸教会 〒658−0047 神戸市東灘区御影3丁目7−11  TEL & FAX (078)851-4334
Copyright (C) 2005 higashikobechurch. All Rights Reserved.