20160724  『いっぱい食べて小さくなあれ』 コリントの信徒への手紙T 11:23〜26
 


 ドイツでもIS(イスラム国)によると思われるテロが起こりました。今回も犯人は「アッラーアクバル!」と叫んでいたそうです。腹立たしく情けないのは、無差別殺人をしでかしておきながら、神を背景につけることです。そんな神などいるはずはありません。
 さて、皆さんドラえもんと言うアニメをご存じでしょう。テレビ放映は1973年から始まりましたが、もともとは小学館の雑誌に1969年から連載されたものです。ですからもう40年以上になる息の長い人気アニメなのです。
 その最大の原因はおよそ2000にのぼるドラえもんの秘密道具にあると思われます。インターネットで検索すると、「ドラえもんの秘密道具」のサイトがあり、秘密道具の人気ランキングが常時出ています。ちなみに、人気第一位は「どこでもドア」です。あと「タイムマシン」、「タケコプター」と続きます。
 堂々ベストテンの8位に「スモールライト」が入っています。サイトで調べると、1.5ボルトのアルカリ乾電池2本で作動すると書いてあります。何というエコかと思います。見た目はちょうど懐中電灯そのもので、この光を当てると、モノが小さくなるんです。
 ドラえもんの秘密道具の中で、どれも魅力的ですが、私は今このスモールライトが本当にあればいいなあと、つくづく思っています。逆にビッグライトというのもあって、これは光を当てると大きくなるという代物です。が、大きくするより、私たちが小さくなれば、食糧問題が解決します。ついでに家も小さくなりますから、人口問題が解決します。そしてクルマを小さくすれば燃料問題も解決するでしょうし、環境問題も飛躍的に改善されるでしょう。
 ま、突拍子もない夢物語ではありますが、余りにも重くて難しい現代の課題を考えていると、思わずスモールライトが欲しいと思ってしまうのです。
 今日与えられたテキストは、聖餐式の時に読んでいる箇所です。コリントの教会の信徒に宛てて出された手紙ですが、当時コリントの町は経済的にも文化的にも大変賑わっていたのです。たくさんの人たちが出入りする町でした。当然教会にも様々な人たちがおりました。コリントですから、ギリシャ人がいたでしょう。ユダヤ人もおりました。このユダヤ人もユダヤから来た人やもともとユダヤを出ていた人もおりました。ローマから来た人もおりました。アフリカの人もいたでしょう。
 職業もまた身分も相当違ったことを想像させられます。自由な人たちもおれば、奴隷の身分の人たちもおりました。もちろん、お金持ちもおれば、貧しい人たちもいたのです。それぞれ抱えていた課題が違ったことは、言うまでもありません。
 更には、もともとパウロが建てた教会でしたが、パウロが去った後、新たに登場したアポロというリーダーがいて彼に属する人がおりましたし、12弟子のペトロに導かれたという人たちもおりました。そのどれにも属さないという人々もおりました。
 これら様々事情の違う人々が、対立したのです。どのリーダーにつくかということも大問題でしたし、またそれぞれの集団において信仰をどう表現するかも大問題になっておりました。一つ前の段落の18節に「まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています」とありますが、パウロはコリントの教会内での対立の模様をよく知らされていて、大変心配もし、また義憤も感じていたのです。
 中でも、愛餐会がひどかったのです。20節に「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」とありますが、この主の晩餐と語られている食事会を当時「アガペー」と呼んでいました。聖書ではユダの手紙に登場する単語です。アガペーとはギリシャ語で、「愛」という意味の言葉です。それも取るに足りない者に対する愛という意味なのです。神さまの愛を示す言葉です。ここから教会で行う食事会の事を「愛餐」とか「愛餐会」と呼ぶようになったのです。
 この愛餐会という食事、使徒言行録に記されていますが、当初はお互いに感謝のうちに、十分皆が分かち合って食事がなされていたのです。ところが、しばらく時が経ち、様々な人々が出入りしていたコリントの教会では、主の晩餐を思い起こす食事というに到底ふさわしくない状態が生まれていました。一つには、きちんとした食事会の手順が定められていなかったということもあります。が、お金持ちを筆頭とする豊かで余裕ある人々が、他の人たちに先行して勝手に飲み食いするようになって行ったのです。貧しい人々の中には、仕事などのため愛餐会に時間通り集まれない者もおりました。分かち合いが原則でしたが、貧しさの故に何も持って来れない人もおりました。それは初めの頃には何も問題にならないことでしたが、そういう事情ある人たちを無視して、余裕ある人々が、先に飲み食いするうち、早々に酔っ払ってしまう者も出て来ます。逆に後から来て食べるものがない、何も持って来れないので遠慮と躊躇で食事会の輪に入れない、密かに帰ってしまう、そういう人たちが出るに至ったのです。
 この有様にパウロは義憤を覚えました。ですから22節にこうあります。「あなた方には、飲んだり食べたりする家が無いのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」
 こう書いて、主の晩餐の源を改めて覚えるよう強く求めたのです。何のためにそれを為すのか。26節、「だからあなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」
 これが今守られている聖餐式の原点です。イエスが生前最後の食事をどのように弟子たちとなさったかを思い起こし、新しい救いの契約を心に刻むために、パウロは聖餐の根本を定めました。それは「主の死を告げ知らせる」ことでした。
 イエスの十字架の死は、何であったか。他でもないあなたにとって何であったか。それはあなたの身代わりの死でした。パウロにとって自分自身の身代わりでした。全知全能の神の子が、持っている力をあえて振わず、かえって小さくなり、無力さをさらけ出し、パウロの、人々の罪を背負って、身代わりに死なれたのです。神が示された救いの出来事は、すべてそこから始まりました。
 かつて熱狂的ユダヤ人として、律法主義者としてクリスチャン迫害の第一線にいたパウロは、イエスと出会い、それまでの罪をすべて赦され、この主の福音を伝道する者として用いられたのです。彼の回心の模様はダマスコ途上の出来事としてよく知られていますが、三日間目が見えなくなる出来事が与えられました。それまで自分の信仰を誇り、他者の信仰を裁き、大いなるものとして言動していたパウロは、誇りにしてきた知恵も力も、暗闇の中で何ら頼ることができない、頼りすがれるのは彼を見つめ続けた真の神さま以外にないと知らされる劇的な体験をしたのです。それは小さくされる出来事でした。
 ですからパウロにとって主の晩餐を思い起こすとは、罪なき方が小さくなって自分の身代わりになられたことを思い起こすことでした。我こそはもっとも正しい者だとして、大手を振っていた頃の自分を恥ずかしく思い起こし、それ故に主の前に自分こそ小さくなって、それを受ける大切な時であったのです。主の晩餐は、イエスの前に小さくなろうというイエス自身からの恵みの呼びかけでもありました。
 パウロはコリントの教会に集まっていた人々の様々な事情の違いをよく知っていましたし、理解していました。それぞれ課題があり、それぞれ信仰の表現の違いがありました。でも教会に集まるとは、集められた人々が、ただ一点、イエスの死とは何であったかを真に思うことでのみ結ばれ、繋がれる世界だと受け取ったのです。
 そこで27節からの一段落では「互いに待ちましょう」と呼びかけています。一緒に食事に預かるためです。これぞ、危急の思いであり、まずもって解決せねばならない第一のことでした。後のことは、すべて第二義のことでした。それで最後に「その他の事については、私がそちらに行った時に決めましょう」と結んでいるのです。
 私たちには、私たちが何者かを照らし示す、イエスの十字架の出来事が与えられています。小さくなるために、スモールライトが欲しいところです。でもスモールライトの欠点は、一定の時が経つと元に戻るということです。
 普段私たちは子供たちに向かって「いっぱい食べて大きくなろう」と声をかけます。それはそれで構いません。けれど内なる心の世界において、私たち聖餐式を通し、信仰生活を通し、イエスの死が何であったかを思い起こします。与えられるたくさんの恵みの出来事があります。それ故イエスの前に、己を、心を小さくして自分を献げるのです。これは繰り返し当てられる神さまの光です。元には戻りません。私たちは誰もがイエスの前に小さくされました。この事を感謝して歩みましょう。


 天の神さま、み子が示されたように小さくなって隣人と歩んで行きます。その道行を祝福しのうちに導いて下さい。



 
 
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