《説教要旨》『主を待ち望む』     大澤 宣 牧師

 イザヤ書 51章4~11節

  讃美歌242番「主を待ち望むアドヴェント」は、オーストリアのウィーンで学校の先生をしておられたマリア・フェルシュルさんという方が作詞された讃美歌です。こどもたちと共に過ごされ、こどもたちに向けられたあたたかいまなざしが感じられる歌です。イエス・キリストがこの世に来られる、その道を、神様は、バプテスマのヨハネを用いて備えられました。そして、主がなされたそのように、互いに助けようとうたいます。イエス・キリストが歩まれた道そのものです。このことを示される時、主の恵みはかがやき、暗闇のようなこの世が照らされるのです。

  イザヤ書51章は、紀元前6世紀、バビロン捕囚からの解放を告げる言葉です。ユダヤの国は、バビロニアに征服され、多くの人たちがバビロニアの都バビロンに連れ去られていたのです。イザヤ書は、「島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む」と、地の果てまで、海の向こうまで、全世界が救いを待ち望むと語ります。イザヤ書が語る喜びと希望は、もはや自分たちの民族だけの喜びではなく、神様が造られたこの世界全体の喜びであり、平和が回復されていく希望を語るのです。

  この世は、ものの豊かさの中で、自分を誇り、悪を善と言い切り、闇を光と言い切り、苦いものを甘いものと言い切る開き直りの中で、自分のあり方を正しいとしてきました。このような世界に、神様は災いだと告げられるとイザヤ書は語っていたのです。この傲慢さの果てに国を滅ぼされていくイスラエルの歴史を、なおそこに神様が働かれる歴史があると、イザヤ書は信仰をもって受け止めるのでした。

  アドヴェント、待降節は、クリスマスを待つ季節です。恐れがあり、不安があります。これからどうなるのかと思わされます。聖書の時代に、また、わたしたちのこの時代に、恐れがあります。わたしたちに、なお希望を持つように、なお喜びを携えて待つようにと告げられるのです。

  アドヴェントの日々は、太陽の光が次第に弱まっていく、冬至へと向かう日々です。この世のものは朽ちるものであることを思いながら、しかし、その中に復活の光が与えられていることを望み見る。この大切な時を歩んでまいりたいと願います。