《説教要旨》『イエスの影を追って』     大澤 宣 牧師

 ルカによる福音書 2章41~52節

  新しい年、2026年を迎えました。イエス・キリストの御降誕によって刻まれる主の年であることを覚えたいと思います。私たちは、常に、主イエス・キリストのみ姿を求め、福音のみ言葉にいやしを求めていこうとしています。私たちの心が満たされるとき、やさしい心を持って、明るい希望をもって、まわりの人の心をも満たすことができるように。そのことを大切にしていきたいと思います。「

  クリスマスにお生まれになられたイエスは、マリア、ヨセフと共に、ガリラヤのナザレに帰られ、そこで過ごされました。イエスが12歳になられた年、過越祭のためにエルサレムに巡礼の旅の途中で、マリアとヨセフはイエスとはぐれてしまったのです。

  イエスは神殿におられたのです。イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました。イエスが本来神殿におられる神様のところにおられるということを示しているといえるかもしれません。

  しかし、福音書を読み進めてまいりますと、イエスが神殿におられるときというのは、決して穏やかなときではありません。それは絶えず神殿の祭司や律法学者たちと論争をされる場面です。そして、その果てに十字架につけられるのです。そう考えますと、イエスが少年時代に神殿におられたこの場面も、やがて訪れるイエスの受難の日を予告する場面といえるのではないかと思います。

  レバノンの作家、ラシッド・エル=ダイフという方の小説を紹介している文章に出会いました。ラシッド・エル=ダイフさんは、1945年生まれ、レバノンで内戦の時期を生きてこられました。波乱の人生を送ってこられた中から、科学的な説明をするためには神を必要としないが、人間が生きていくためにはどうしても神を必要とするということがいわれているのです。

  今も、この世界には多くの問題が渦巻いています。私たちそれぞれも、問題を抱え、悲しみを抱えて生きています。この世界を生きるためには信仰が必要なのです。私たちそれぞれの、喜びや悲しみ、生きること死ぬこと、そのすべての場所に、主イエスが共におられるのです。

  私たちの中に、主がおられることを受け止めるとき、なお喜び、なお祈り、なお感謝する、新しい歩みに導かれることを信じてまいりたいと願います。