《説教要旨》『主に従って進む』     大澤 宣 牧師

 マルコによる福音書 1章14~20節

  シモンと呼ばれているペトロとアンデレの兄弟、また、ヤコブとヨハネという兄弟が、イエスの最初の弟子として歩み始めるところです。彼らは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というイエスの呼びかけに応えて、イエスに従っていくのです。「人間をとる漁師」。この未知のものに希望を見出し、従っていくのです。弟子たちは、自分の思いではなくイエスの招きに従って進み始めました。しかも、これまで漁師として働いていた仕事の道具、網や舟をおいて、ゼベダイという家族、一緒に働いていた人たち、すべてを捨てて従うのです。

  しかし、すべてを捨てたといっても、捨てきれるものではありません。彼らは、すぐに自分の家に帰っています。家族が熱を出しているので、イエスの助けてほしいと願います。そういうありのままの姿でイエスに従い続けたということだと思います。

  それは、イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネが捕らえられた時でした。迫害が始まる時です。その時に、イエスは、「神の国は近づいた」と語り始められたのです。行き詰まり、希望が持てなくなる時、その現実の中にイエスの招きがあり、従って進むことが始まるのです。

  但馬デイとして但馬地区の働きを覚えています。宣教は困難だと言われます。8つの教会・伝道所のうち5つが代務者が働いておられるということです。だからこそ、神様が共にいてくださる、共に生きることの大切さを感じておられるということです。

  兵庫県南部大地震から31年の時を迎えました。多くの人の命が失われました。多くの悲しみがあります。壊れたものは壊れたものとして残ります。悲しみは悲しみとして残ります。生と死を考えることを通して、人が出会っていかれます。何か目に見えない力に手を引かれるような思いを与えられます。具体的な人との出会いの中で、神様の働きかけを聞き、行き詰まり、希望の持てない現実の中で、なお歩き始めようとする、歩みがあるのです。

  イエスは迫害の中から語り始められました。イエスに招かれた弟子たちは、イエスの十字架の死の中から語り始めました。生と死の命の重さの中から、神様の招きに従って、語り始められ、歩み始めようとしておられる。その思いに、私たちも出会ってゆきたいと願います。