《説教要旨》『受難のイエス』     大澤 宣 牧師

 マルコによる福音書 3章20~30節

  福島県の小高伝道所牧師、飯島信牧師は、地域に生きようとされる方に呼びかけて小高夏期自由大学という取り組みを行なわれました。得意なこと好きなことを生かして生活していくこと。課題をみんなで解決しようとすること。活発なコミュニティから仲間が増えていくこと。それを実感しておられます。東日本大震災から15年となります。壊れそうになっている地域を、なんとか再生させよう、人と人とのつながりを作っていこうとする働きがすすめられています。

  人と人とが離れていこうとすることは、痛みであり悲しみです。マルコ福音書で、イエスに対して、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と中傷した人がいました。ベルゼブルというのは、ユダヤの人たちにとって邪悪な神とされているものです。それを聞いて、イエスの身内の人たちも、イエスを取り押さえようとしたのでした。

  イエスを中傷した人たちも、取り押さえようとした人たちも、イエスが多くの貧しい人たち、病む人たち、体の不自由な人たちと共におられて、その人たちと共に生きようとされていたことを見ようとはしませんでした。

  苦しんでいる人が、これは人生から問いかけられているのだ、この問いかけに決断をもって生きていこう、勇気をもって生きていこうという、その力を与えられるのは、共に苦しむ人がいるからだということです。(杉岡良彦『フランクルと「共苦」の思想』)

  苦しむことの多いもの、不安をもち、これに意味があるのだろうかと戸惑うものであるかも知れません。しかし、これに向き合い、人と共に苦しみを分け合ったことは、決して無意味なことではなく、励ましを与え、希望を与えることになるのです。

  受難の主が罵られ、ご自身が弱くされていく十字架への歩みをたどられたことを思うとき、強さを誇ることができない、弱さを抱えた一人ひとりが、支え合い、共に生きるという大切な業に召されていることを覚えたいと思います。