《説教要旨》『命の主に従う』 大澤 宣 牧師
マルコによる福音書 8章31~38節
ノンフィクション作家の澤地久枝さんが、ルーマニアの民話にある言葉、「生きて還れなかったら種になって還る」という言葉に触れて、望まないのに別れていくことになった時、種になってでも故郷の大地へ戻ってきたいという願いを語られました。澤地久枝さんは、この言葉を、東日本大震災の現実を見られながら語られたのです。(『3.11を心に刻んで』)
しかし、今、もともとルーマニアの人たちが、戦場で命を失う現実の中で語られてきた言葉として聞かなければならないことを思わされています。
ジェラルド.L.シッツァーさんという方は、事故で家族を失われ、時を経てもなくならない深い悲しみの中で、「神は、私の人生の終わりのときまで、また永遠に現存し続けてくださるだろう」という思いに至られました。長かった命も、短かった命も、確かにそこに存在して意味を持つ命であったことに気づかされたのです。(『愛する人を失うとき』)
イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。人の命は重いものです。他者の命も、自分の命も、決して粗末に扱われてはなりません。そして、自分の命にこだわることの中で、果たしてそれは生きていることになるのかということを考えさせられます。イエスは、命というものは、自分にこだわり、自分のために何かということでは生きてこないということを言われたのではないかと思います。教会も、他者のために存在する時、はじめて教会であるといわれます。
イエスは、ひとり高いところにとどまっておられるのではなく、この世に生きられ、人と触れあわれました。そして、十字架を負われ、命を失うことのゆえに、イエスの命は本当に生きるのです。神様が共にうめいてくださる。主イエス・キリストが私たちと共にいてくださる。この命の主に支えられている私たちであることを信じてまいりたいと願います。