《説教要旨》 『喜びに満たされる』 大澤 宣 牧師

ヨハネによる福音書3:22~36

やりかけたことは最後までやりなさいといわれます。けれども、人が生きていく中では、さまざまなことがあります。もうこれで良しという思いに至ることができる場合もあるかもしれませんが、途中で終わっていかなければならない場合もあります。多くのことはそうなのかもしれません。ここで完成、これで良しということになったら、その先は何なのでしょう。私たちが生きることは、どのように長く生きたとしても、なお途上にあるのです。神様に託すべきところは託していかなければなりません。

バプテスマのヨハネは、「自分はメシアではない」、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と語っていました。そして、イエスという方を知って、「わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と語ったのです。ヨハネは、神様に仕える働きを担う者として、喜びに満たされました。ヨハネは、あくまでも地に属する者として生き、語り、働いたのです。しかし、その中にあって、常に、すべてのものの上におられる方を信じて歩んだのでした。

井上ひさしさんの『握手』という小説があります。上野公園にある西洋料理店でルロイ修道士という方と久しぶりに会う場面が描かれています。ルロイ修道士は、主人公がかつて過ごした児童養護施設の園長を務めていた人です。初めてその施設に行った時、「ただいまから、ここがあなたの家です。もう、何の心配もいりませんよ」と言って握手をしてくれたのでした。

ルロイ修道士は、やがて自分は世を去って行くということの中で、自分のもとから育っていったこどもたちの姿を見て、そこに確かに神様が働いてくださっていることを目の当たりにし、喜んだのだと思います。地に属する一人の人間として生きた生涯が、確かにすべてのものの上におられる方のもとにあったのだということを信じたのでした。

私たち、それぞれの歩みが、ヨハネの言葉のように、地から出て、地に属する者としての歩みであることを思います。それぞれの歩みは異なります。それは比べるものではありません。神様の前に謙虚に、人の前に謙虚に歩む私たちでありたいと思います。

私たちすべてのものの上におられる方がある。私たちはその方のもとにあるものであることを知らされ、喜びに満たされ、誠実に歩む者でありたいと願います。