《説教要旨》『希望の光』                    大澤宣 牧師

ヨハネによる福音書10:22~30

信仰をもって生きるということは、それぞれが聖書の言葉、神様の御言葉を大切に受け止め、ひとり一人が神様の光を受けて、この世へと出ていき、この世界の中でその光を輝かせることであるのだと思います。私たちは、常に神様が届けてくださる光を見つめ、希望の内に進む者でありたいと思います。

エルサレムで神殿奉献記念祭という祭が行われていました。神殿を清めて神様のためにささげたというこの祭りは、エルサレム神殿が神様のためのものになっていなかったという、歴史的な事情があってのことでした。紀元前2世紀、シリアの王がイスラエルを征服し、ユダヤ人の宗教的活動を禁じました。やがて、ユダヤの指導者ユダ・マカベアという人がシリアを追い返すことに成功し、神殿を清め、礼拝をささげたのです。これを記念したのが神殿奉献記念祭でした。

シリアの王が神殿を破壊した時、ただ一つ残った灯が八日間燃え続けたという言い伝えに基づいて、各家々で八つの枝を持つ燭台に八日間灯りをともすという、「光の祭り」が行われるようになったということです。

イエスの時代にも、ユダヤは外国の支配を受け、エルサレムは実質的にローマの支配のもとに置かれていました。その中で神殿奉献記念祭を行うことは、むなしさを感じることだったかもしれません。しかし、その中だからこそ、希望をもって新しい時を待ち望むことが大切だったのです。

医師の日野原重明さんは、若いころ、病を患われて、学業が遅れてしまいました。その中で、病んでいる患者さんの心を理解することを学びました。健康な時には得ることのできなかったことを、病を通じて得ることができたと語っておられました。

受け容れがたいことを受け容れながら、そこからあふれる恵みの豊かさに気づかされることがあります。それは、私たちの考えや想像力を超えたものです。

私たちがまわりを見回してみると、とても満足できる状態ではないことを思わされます。なんとかしなければならないと思いながら、なんともできないのが私たちです。そのような私たちのために、主はご自身を通して、神様が私たちをどのように見ていてくださるのかを示してくださいました。