《説教要旨》『さあ、彼のところへ行こう』 大澤宣 牧師
ヨハネによる福音書11章1-16節
聖書学者の大貫隆さんは、一人の学生の生と死に出会われ、死というものの絶対的な理不尽さを思わされました。人を愛し、信仰の道を歩んでいた若い命を、跡形のないものとしてしまう。死が一つの存在として目の前に感じられたということでした。その時、パウロの言葉が思い起こされました。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。(コリント一15:54~55)人間が肉体的な力をもってしては、決して抵抗することのできない死というものであっても、朽ちないものに目を向けていく人間の思い、キリストの復活への信仰は、それを打ち破るという確信です。「それは主よ、あなたご自身が私のもとに来られたからです」。重い病の床にある若い魂は、そう信じたのでした。
イエスの友であるラザロが重病であることが知らされ、イエスは ラザロのところに行こうとされます。ラザロたちが住むベタニア村は「悩む者の家」「貧しい者の家」という意味の名前でした。その通りかどうかははっきりとわかりませんが、貧しさと悩みの中で生きてきたラザロが病気で死にかかっている、どうしてこのような理不尽なことが起こるのかと言いたくなります。
「なぜ人を殺してはならないのですか」という問いがあります。私たちの命は生まれるべくして生まれてきた命であり、私たちは、この世界に望まれて生まれてきたのです。この世界や宇宙によって望まれ、見守られて生まれてきたのであって、誕生とともに私たちは救われているのです。(山折哲雄・森岡正博『救いとは何か』)
私は、命は、神様が望まれて、この世に与えてくださったものであり、命を与えてくださった方のところに再び召されるまで、精一杯、大切に生きるものだと思います。だから、殺してはならないし、どのような人生も意義のある人生なのです。
ラザロのところに主が来られるのです。それは、ラザロの死を超えた、さらに偉大な出来事です。ラザロの死と命を通して、私たちすべての者の命を治められる主がおられることを知らされるのです。