《説教要旨》『いやしの旅への同行』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書4章18~25節
1月13日に、在日大韓基督教会神戸教会で行われました第39回韓日交流信徒大会で兵庫県南部大地震発生当時のことが語られ、明日生きていることが当たり前ではないとの思いをお聞きしました。そのお話をお聞きしながら、「たとえ明日この世界が滅びることを知っていても、私は、それでもなお、今日、私のリンゴの若木を植えるだろう」という言葉を思い起こしました。この言葉は宗教改革者ルターの言葉だと考えられてきましたが、政治学者の宮田光雄さんによるとルターが書いたものの中にはこの言葉はないそうです。作者は一人ではなく、多くの人々だったのかもしれません。リンゴの若木という、か弱さをもち、しかし、愛らしさ、明るさをもつ言葉は、この世界が滅びるという不安に対して、希望に生きる力強さをもっているのです。
兵庫県南部大地震発生から30年の時を迎えました。失われた尊い命を思います。愛する方を失われた悲しみを思います。大きな傷を負われたことを思います。だれもが大切なものを失われたことを思います。悲しみを癒すことは人の力ではできません。立ち上がることは人の力ではできません。私たちは、イエス・キリストの十字架という、人の重荷を担ってくださり、悲しみを共にしてくださり、人と人とが結び合って生きるように、支え、導いてくださることを信じています。
イエスは、苦しみ、悲しみ、希望がもてなくなる現実の中に出ていかれ、いやされました。説明のつかない苦しみ、悲しみの中にあって、慰めを与えられる、いやしの旅を続けられたのです。イエスの弟子たちは、このいやしの旅に同行するものとして召されました。弱くされ、小さくされ、ばらばらにされている人たちを結び合わせ、慰め合い、支え合い、共に生きることへと導きだしていく、このいやしの旅への招きでした。
レオ・レオーニがかいた『スイミー』という本に教えられ、慰めを与えられます。傷つき、悲しみの中にあり、力のないもの。そのままでいたならば、つながりも失ってしまい、途方に暮れるばかりのものです。その小さなものも、なお慰められ、励まされ、結び合わされていくのです。それぞれの与えられている生活の中で、主が働かれるいやしの旅へ同行するように招かれているのではないかと思います。
なぜと問うしかすべのない私たちであることを思います。その私たちの小ささと弱さに主が共におられ、私たちを主の業へ、人が生きることの重さを見出していくいやしの旅へと招いておられることを覚え、私たちのなし得る歩みを大切にしてまいりたいと思います。