《説教要旨》『神の国のはじまり』 明石ベテル教会 斎藤 成二 牧師
マタイによる福音書4章12~17節
聖書は、バプテスマのヨハネの逮捕をきっかけに、イエスさまがナザレからカファルナウムに移り住んだことを報告します。同じガリラヤの地域内ですが、エルサレムからより遠くへ離れました。イエスさまにも当時のユダヤ教権力から距離を置きたい思いがあったのかもしれません。
このガリラヤという地域はしばしば「辺境」と表現されます。「政治や経済の中心から遠く離れた地域」という意味です。あるいは「その存在が見えにくくされた民衆が生きている地域」と言い換えてもいいかもしれません。この聖書では「異邦人のガリラヤ」と表現されていますが、ガリラヤはすでにイザヤの時代から、イスラエルの支配の及ばない地域と見なされていました。そもそも王国時代の最初からイスラエルの完全な支配地ではなかったようです。
そのように多様な人々が生きる地で宣教を始めるにあたり、イエスさまは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけます。その言葉は終末的な響きを持って、その地のあらゆる人々に届きました。もちろんイエスさまは主にユダヤ人たちに向けて語られました。ただしこの時代の終末思想は、やがておとずれる現実世界の秩序の大転換という現実的な事態を待ち望むものです。つまり天の国の到来は、ユダヤ人だけでなく全ての人が当事者となる究極の事態なのです。
しかしその宣教は「罪人は滅ぼされる」という裁きを訴えるものではありません。もし裁きが主眼であるなら、イエスさまは病人の癒やしといった効率の悪い宣教はしないでしょう。大切なのは裁きではなく、創造のみ業の完成です。つまりイエスさまが宣教される天の国の到来とは、神さまが全ての秩序とそこに生きる人々を癒やしと安心の中に包み込もうとしていることに他なりません。マタイ福音書がイザヤ書から語ったように、神さまの支配の到来はこの地上に住む全ての民にとっての喜びです。そしてその宣教は現代に生きるわたしたちにも語りかけられています。
私たちは未だ人間の思惑が支配する世界に生きています。そこには戦争や貧困などの問題が起こり、小さく弱い存在ほど蔑ろにされていきます。しかしイエスさまが天の国の到来を宣教されたということは、その悲しい現実の中にあって、誰も取り残されない神の国が今なお途切れることなく広がりつつあるということです。そう信じて、主の身体である教会に連なって、イエスさまの宣教に共に仕えていくのが教会であり信仰者です。支え合って、神の国の安心を広めていきましょう。