《説教要旨》『心の内なる宮清め』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書21章12~17節
イエス・キリストが地上に歩まれた頃、エルサレムにあった神殿はヘロデ大王が修築した神殿でした。紀元前20年に始まり46年かけて工事が行われたそうです。その神殿は、当時のエルサレムの市街地の6分の1を占める巨大なものでした。神殿の壁の白く輝く大理石は遥か遠くからも見え、エルサレムに巡礼に来た人たちは、長い旅を終えてエルサレムに近づいた時、神殿を眺めて、喜び、誇りに思ったことでした。しかし、その神殿も、ローマ帝国とアグリッパ2世の手によって破壊されます。
その神殿で、イエスは、境内で売り買いしていた人たちを追い出され、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたということでした。鳩を売るというのはいけにえにする生き物を売っているということです。両替人というのは神殿にささげるお金を両替するということです。当時のユダヤではローマのお金が使われていたのですが、神殿にささげるのはユダヤで昔から使われていたお金でないといけないということになっていました。その両替の手数料が24パーセントという高い率でした。そういう商人たちと神殿の祭司たちが組んで、祭司たちも私腹を肥やしていたのでした。
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。これは、イザヤ書56章、エレミヤ書7章に基づく言葉です。
一方で、イエスは、神殿の境内で、弱くされている人々を助け、いやされ、支えておられたのです。命を救うことと、命を脅かすこと。どちらが良いのか問いかけておられるのです。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。(マタイによる福音書16:26)この世の力を持つ人は、その力に飲み込まれないようにすることが必要です。イエスは、物質的な豊かさや力を追い求めることによって、かえって自分の命を見失うことを戒めておられます。
目に見えるもの、手に取ることのできるものこそが確かで、そういうものが私たちを守るのだと考えていないだろうかと思います。私たちにとって、本当に確かなもの、永遠に続くものは、実は目には見えない希望なのだということを教えられます。イエスが共に生きられる姿を示された時、こどもたちが神様をたたえる、喜びの声をあげました。私たちは、心の内なる宮清めをなして、主の示される歩みを見つめるものでありたいと願います。