《説教要旨》『受難の僕』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書27章45~56節
私たちは奇妙な樹を知っている/その樹は私たちの苦悩の岩盤に根を張り
不安な空に一つの幹と二つの枝を拡げている/その樹はたった一つの果実しか生じない
果実の名前は「油そそがれたる者」と言い/べつの名を「汚れなき神の小羊」と呼ぶ
私たちは行ってその果実を礼拝するが/果実を生じたのが自分の罪であるとは
けっして認めようとしない/私たちの罪の不承認によって/その樹の幹と枝とはつねに堅固で
果実はつねにみずみずしく重い/果実の色はあたらしい血の赤で
血は五つの傷からあふれてしたたり/病んだ大地を浄めつづけている 高橋睦郎「十字架」
イエスは、この世の力あるものによって十字架につけられました。十字架というのは、ローマの政治犯、皇帝に逆らったものを処刑する仕方でした。この世の力を持つ人たちは、自分たちの手を汚さないでイエスを十字架に追いやりましたが、もともと、イエスがなさったこと、イエスが語られたことが、自分たちの立場を悪くするものだと考え、イエスをなんとかしてやろうと思っていたのでした。
高橋睦郎さんの詩にうたわれますように、「私たちは行ってその果実を礼拝するが、果実を生じたのが自分の罪であるとは、けっして認めようとしない」のです。けれども、イエスの十字架は、一人ひとりに、この十字架があなたのためのものであると問いかけてくるのです。
私たちは、神様の御子が「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことを心に留めなければなりません。神様の御子であるイエスが、神様と人との間に立たれました。神様に対して死すべき人間を代表して、人間の側に立たれました。人が生きていく現実の中で、神様に見捨てられたかと思うような現実があるかもしれません。イエスは、その人間と同じように捨てられ、なぜですかと叫ばれたのです。それは神様への不信ではなく、むしろ神様の存在をより鮮明に認めることだと思います。
私たちは、自分の現実に対して、またこの世のありさまに対して、どうしてなのだと言わなければならない時があると思います。それが神様の存在を鮮明に見つめていくことでもあるのです。困難に直面して、諦めてしまうのではなく、なぜですかと問い続けていく、そこに神様に現実があります。十字架の意味を、今日、しっかりと心にとどめたいと願います。