《説教要旨》『新しい人を身に着け』 大澤宣 牧師
コロサイの信徒への手紙3章1~11節
大江健三郎さんは『新しい人よ眼ざめよ』という小説の中で、生まれながらハンディを持つ息子さんの大江光さんとの生活の一断面を記しておられます。
光さんの学校では、学期ごとに、すべての生徒が校内にある寄宿舎で生活を経験することになっていました。健三郎さんは、光さんが寄宿舎での生活を無事に終えられるかどうか心配していたのですが、光さんはこう言われました。「寄宿舎に入る順番になりました!準備はできておりますか?来週の水曜日に入ることになっております。しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか?パパはこのピンチを、またうまく切りぬけるでしょうか?」それを聞いて、健三郎さんは、半べそをかきそうになりながら笑っていたということです。
寄宿舎から帰った光さんは,見事に自立していました。息子から自立できないでいた健三郎さんは、いくぶんかの喪失感を味わいながら、しかし、依存し合って生きることではなく、それぞれが自立した上で、共に生きることの大切さに気づかされたのです。それは、若い人たちだけが新し人とされていくことではなく、大江健三郎さん自身も、もう一人の若者として新しい人とされていく、再生した自分として立つということでした。
「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(コロサイ3:10)私たちは新しい日を迎え、新たにされていきます。キリストと共に復活させられたものであり、上にあるものであり、キリストと共に神の内に隠されているのです。それは、時間がたてば古くなってしまうようなものではなく、私たちの思いや力を超えて新しいものなのです。
私たちは地上のものの中に行き、死ぬべき命の中に生きるものであり、あらゆることにおいて限界をもち、欠けたところをもつものです。そのような私たちであるからこそ、新しい人を身に着けなさいと言われます。古くなり、くたびれる私たちであるからこそ、日々新たにされると言われるのです。
それぞれのおかれた現実、取り組むべきことがらの中で、これにとらわれてしまうのではなく、新しい人を身に着け、日々新たにされるという神様の呼びかけを受け止めてまいりたいと願います。