《説教要旨》『輝くいのちを生きる                 大澤宣 牧師  

 ヨハネによる福音書11章17~27節

 

 30年ほど前、長野県で働かれるアメリカ人の牧師ウイリアム・リースさんとロバータ・リースさんという夫妻が、身元不明の男の子を引き取られ、この子どもの日本国籍を取得するための裁判を起こしたことがありました。その訴えは認められなかったのですが、リース夫妻は、この子どもが差別を受けることなく、のびのびと生きていくことができるように骨を折ってこられました。

 母の日をおぼえ、母の愛を通していのちを与えられていることを神様に感謝する思いにさせられます。そして、血のつながりがなかったとしても、そこには人のつながりがあること、人が人を思う心があることを大切にしたいと願います。

 イエスがエルサレムに行かれるとき滞在されたベタニア村に、マリア、マルタ、ラザロという姉妹兄弟たちがいました。ラザロが病気になり、マリア、マルタだけではなく、村の人たちが心配し、祈り、励まし合いました。そして、ラザロが死んでしまったとき、多くの人たちがその死を悼み,慰めに来たのです。

 マリアとマルタは、ラザロが病気だったときから,イエスに来てもらおうとして人を送っていました。けれども、イエスが来られたのはラザロが死んで四日後のことでした。

 人の命の瀬戸際に立たされるとき、平静でいられるものではありません。どうしてこういうことになったのか。心は揺れ動きます。

『いのちの砂時計』という本があります。「どんな命にも限りがある。『命の期限』を意識し、残された一日一日を大切に過ごすとき、命は輝く。多くの方々の生きざまが、私たちに最期のときまで生き切ることの意味を教えてくれる。死を考えることは,生きることを考えることでもある」。

イエスは、ラザロの死と復活を通して、ラザロ一人の人にとどまらないいのちの物語を示されるのです。それは、イエス・キリストご自身の死と復活の予告です。そして、イエス・キリストの死と復活は、私たちすべてのもの、一人ひとりの死と復活を指し示すのです。

一人ひとりが神様に向かっていく歩みであり、その歩みが互いにつながり合っていく教会の歩みであることを大切にしたいと思います。イエス・キリストのみ言葉を受け止め、いのちの希望に生きる歩みをすすめたいと願います。