《説教要旨》『祈りの姿』 大澤宣 牧師
マタイよる福音書6章5~15節
15世紀のドイツ。ともに絵の勉強をすることを目指していた兄弟は、一人が鉱山で働き、もう一人が学校で絵を学ぶということを決めました。4年後、若い画家になった弟が故郷に帰り、今度は兄さんだと言ったのです。しかし、鉱山で働いてきた兄は、手を痛めてしまい絵筆を持つことができなくなっていました。弟は兄が払ってくれた犠牲に対する思いを込めて、兄の節くれだった手を描きました。手のひらをあわせているその手は、痛ましく曲がった指が天を指していました。画家アルプレヒト・デューラーはその絵に「手」という名前をつけなしたが、この傑作に心を打たれた人々は「祈る手」と呼ぶようになったのでした。マーガレット・シルフ編『深い知恵の話』に書かれている話です。兄の祈りを心に留め、その祈りの姿を描いた弟でした。その彼も深い祈りを込めてその絵を描いたことだと思います。言葉に尽くせない祈りがあることを思わされます。
イエスは、祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる神様に祈りなさいと言われました。人の前で祈るとき、一人で祈るとき、そのいずれもが、神様に向けられた心からの祈りであることを大切にしたいと思います。イエスが指摘された偽善者たちとは、人に聞かれることばかりを意識しているものでした。祈りだけではなく、施しも、断食も、奉仕も、自分がよい行いをする人であることを意識的に演じることでした。その人たちの関心は、自分を見てくれている人であり、賞賛を受ける自分なのです。そこで欠落しているのは、本来祈りをささげるべき神様です。神様に向かって、言葉にならない祈りであっても、心から訴えるということが祈りであると思います。
イエスは「主の祈り」を教えられました。ここでイエスが祈られた「父よ」という言葉は、日常生活の中で、子どもが親に呼びかけるような親しみを込めた言葉だと言われています。神様が男性か女性かということではなく、全幅の信頼を込めた呼びかけだったということを大切にしたいと思います。
祈りの言葉は、神様の御心が地上でも行われますようにということです。私たちが食べ物を求めること。互いに赦し合うこと。誘惑から守られること。すべてのことが神様の御心でありますようにと祈ります。
人の前で祈る祈りが洗います。隠れたところで祈る祈りがあります。どちらも、神様に向けられている大切な祈りであることを忘れないでいたいと思います。私たちの心からの祈りを、神様は見ていてくださり、聞いていてくださることを信じて、祈りつづけるものでありたいと願います。