《説教要旨》『和解からの道』                 大澤宣 牧師

 マタイによる福音書5章21~26節

  池澤夏樹さんが「一緒に行きましょう」という文章を新聞に書いておられました。オーストラリアでイスラム教徒の人たちに対する反発が強くなっていたとき、イスラム教徒であることを表す服装をかくすようなことがあったのです。そのようなことがあってはならないと、イスラム教の人たちと一緒に歩く、一緒に乗り物に乗るということが広がっていったのでした。オーストラリアは多文化主義ということをうたっている国です。それぞれが対等に扱われることを大切にするということに誇りを持っているのでした。

  イエス・キリストは、山上の説教の中で和解の歩みを語られました。人に対する怒りの心、軽蔑の心を持つものは、もう心の中で人を殺しているのだ。だから、祭壇に供え物を献げるとき、神様の前に進み出るとき、人との間に不仲なことがあるならば、供え物を置いておいてでも、まず和解するように。まず仲直りするように。神様への供え物をするのはそれからだとイエスは語られたのです。

  山形謙二さんが書かれた『負わされた十字架』という本の中に、西村秀夫さんという方のことが書かれています。内村鑑三さんの流れをくむ無教会のクリスチャンで、東京大学の教員でした。1968年当時、学園闘争が行われていた時代、西村秀夫さんは、学生たちの訴えに教授会は聞くべきだと訴えていました。やがて西村秀夫さんは大学を去り、北海道の身体にハンディを持つ方たちの授産施設に移られました。西村秀夫さんはそこで働きながら、人と人とが共に生きる道、ハンディを持つ人たちもハンディを持たない人たちも良く生きられる道を求めて歩み続けられたのでした。

  人と人との和解を求め、非暴力を求め、心を痛めながら生きられました。砕けた悔いた心を抱えながら、なお人が共に生きる道を求めて生きた和解からの道が神様の前へとつながっていたことを思います。

  私たちが、どれほど不十分なものであったとしても、どれほど弱いものであったとしても、十字架を負われたイエスに従いゆくように、和解を求めてすすみゆくように、そして、和解からの道を進むように、私たちは導きを与えられています。その時、他者と共に道を一緒に行きましょうと歩んでいけるのだと思います。私たちは、となり人と道を共に行くものであること、まだその途上にあるということを、十字架の主が与えてくださる恵みとして受け止め、進みゆくものでありたいと願います。