《説教要旨》『神との対話』                 大澤 宣 牧師

 マタイによる福音書7章21~29節

  犬養道子さんが『こころの座標軸』という本の中で、人が生きていく上での指針とするもの、座標軸とすべきものについて語っておられます。それはコモンセンス、常識ということですが、ただ常識という意味ではなく、人間が、言葉や理屈ではなく、だれもが共通して知っていることだということです。それは、だれであっても痛いものは痛い、つらいものはつらい、そして、今ここで相手が何を求めているのか、自分がその人に対して何ができるのか、そういうことを考えていきたいということでした。

  イエスは、わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない、神様のみこころを行う者が天の国に入るのだと言われました。神様が喜ばれることを行う者でなければならないということです。いかにも信心深い姿を見せているかもしれない人たちが、実は、神様のみこころを行っていない、そういう人たちは、本当の弟子とはいえないのではないかと言われているのです。

  私たちが、人に対して評価したり、批判したりすることはできません。誰であっても、自分が正しいなどといえません。自分が正しいと自分を絶対化するとき、それ自体が大きな過ちをおかすことになるのです。いろいろいそがしく働いている人がいたとしても、何のためにいそがしくしているのか見失ってしまってはなりません。ただ目に見える姿を立派に見せようとしているのでは仕方がありません。まず心をしずめて、主の言葉を聞くことを大切にしたと思います。

  神学者の浅野順一さんはご自身のこどもさんが天に召されるという大きな悲しみを経験されました。その中から、神様がひとり子をこの世に送られるということがどんなに大きなことであったかと気づかされます。「神は愛である」という、そのことも、それまでしみじみ受け取ることができなかったと語られるのです。人生のあしもとをすくわれるような出来事に出会われ、いっさいが流されていくとき、なおその中に、神は愛であるという命の言葉に心を向けさせられたと語られるのです。

  先日、私の母が天に召されました。病床で「もう一回生きられるとしたら、この通りの人生を生きたい」と語っていました。喜びの時、悲しみの時、苦難の時のあった人生ですが、その言葉の通り受け止めようと思ったことでした。神様ご自身が、ひとり子をこの世に送ってくださり、十字架の死をもって私たちに永遠の命を約束してくださったこと。この神様の愛を通して語られる言葉。私たちの語る言葉にも命があり、力があることを思わされるのです。私たちが、自分を低くして、神様の言葉を聞きながら、誠実に語っていくこと。慰めの言葉を語り、励ましの言葉を語っていくものでありたいと願います。