《説教要旨》『信じたとおりの道を』 大澤 宣 牧師
マタイによる福音書8章5~13節
栗原貞子さんの「生ましめんかな」という詩があります。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されたとき、地下室で新しい命が生まれた出来事を聞かれて書かれたものです。「生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも」とうたう詩は、原子爆弾の大きな力より、一人の赤ちゃんが生まれることの大切さを訴えています。今、世界がどこへ向かっていこうとしているのか考えさせられています。命を殺すことではなく、命を守ること、それを大切にしなければなりません。
イエスは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイ7:24)と言われました。わたしたちが神様のみ言葉を聞いて、なすべきことを行うことの中に、確かな土台があるということを示されます。
イエスがカファルナウムに入られたとき、一人の百人隊長が近づいてきました。僕が寝込んでいて、ひどく苦しんでいたのです。ローマの軍隊組織の中にいる百人隊長には、ユダヤ人であるイエスを自分の家に迎えることができませんでした。百人隊長は、イエスが「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われるのをさえぎって、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と答えたのです。イエスの言葉のみで、すべてを受け止め、すべてがそうなると信じたのです。
イエスが、自らの謙虚さを示され、人と人との間に分け隔てのない共生への歩みを呼びかけられたことに対し、百人隊長は、彼自身の現実の中から、彼なりの信仰の言葉をもって共鳴したのです。イエスは、その言葉を受け止められて、信じたとおりになるようにとの祝福の言葉を告げられました。
この百人隊長が、この後どのような人生を歩んだのかはわかりません。しかし、彼は彼の仕方で、病気の僕や、彼の隣人である人たちと共に、共に生きる世界へと結びつけられた一人の人格として生きていったのではないかと思います。そのように信じて歩み彼を、イエス・キリストは、あなたが信じたとおりの道を行くようにと祝福されたのではないかと思います。
私たちもまた、この複雑な問題を抱えた時代と社会の中で、そして、人と人とが傷つけ合う現実があふれている世界の中で、わたしの存在を認め受け容れてくださる方、十字架の主イエス・キリストを絶えず見上げていく謙虚な歩みをなすものでありたいと願います。わたしたちの現実、わたし自身のありようから出発しながら、なお、共に生きる世界へと結びつけられ、新しい歴史を担っていく一人ひとりとされていることを大切にしたいと思います。