《説教要旨》『障害は人間であることの一部ですDisability is part of being human 時間軸から見たノブレス・オブジージュ』                 白坂大輔さん

 ヨブ記1:21節 マタイによる福音書10章8節

  私は現在56歳、16歳のときに加古川キリスト教会で受洗し、大学6年間は広島アライアンス教会で過ごしました。消化器内科の医師として神戸赤十字病院に勤務し、主に消化器癌の内視鏡治療、抗がん剤治療、緩和医療を行っています。

  一つ目のテーマである障害者について、運動機能障害は、「体を動かすことに支障があり、日常生活に不便を感じる状態」と定義されます。私は腰の椎間板ヘルニアで1歩も歩くことができなくなり、一時的に身体障害者となりました。生まれてすぐの赤ちゃんや亡くなる直前の方は、自分で歩くことができないので、広い意味では身体障害者となります。WHOの定義では、「障害はほぼすべての人が、人生の中で一時的あるいは持続的に、障害を経験します」とされています。障害があることは、「人間らしい」ともいえますし、神さまの前で、人間は本当に小さなものだと思わされます。人間は成長すると、おごり、高ぶり何でも一人でできるような錯覚に陥りますが、年齢とともに再び自分では歩けなくなり、主のもとに帰るのです。それが人間の一生なのだと、ヨブ記を通してあらためて思う毎日です。

  二つ目のテーマであるノブレス・オブリージュは、「身分の高い者は、それにみあった社会的責任と義務を負うべきである」という意味です。現代であれば行政が行うべきサービスを、身分の高い者は行う義務があるとする文化が、古くからヨーロッパには根付いていました。ノブレス・オブリージュが、自分よりも他人の幸せを優先して、努力しなければいけないという社会的圧力になると息苦しいものになりますが、「自分よりも他人」ではなく、「自分も他人も」という視点にたつと、みえる景色が変わってきます。「障害は人間であることの一部であり、誰しもが障害者なのだ」と考えると、他人のために働くということは、「将来の自分」「未来の仲間」のために働くことでもあると理解できます。

  マタイによる福音書10章8節には、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と書かれています。「誰しもが障害者なのだ」という視点で、「将来の自分」「未来の仲間」のために、イエスさまが教えてくださった「減ることのない愛」を家族に、そして周りの人に伝えていこうではありませんか。