《説教要旨》『刈り入れの時まで』     大澤 宣 牧師

 マタイによる福音書13章24~30節

  イエス・キリストが語られたたとえ話で、麦と一緒にはえてきた毒麦をどのようにしようかということがありました。麦と毒麦は見分けにくいので、良い麦まで抜いてしまわないように、収穫の時までそのままにされるということでした。

  教会の倫理観、どのように生きるのかということに影響を与えた、宗教改革者カルヴァンの予定説というものがあります。私たちそれぞれは、良い実を結ぶものも、悪い実を結ぶものも、はじめから神様によって定められ、予定されているものだといわれていました。カルヴァンが語ったのはそこまででした。しかし、後の人々は、良い実を結ぶものと悪い実を結ぶものとがどこかで見分けられないものかと考えました。そして、それはこの世で成功するかどうかだと考えるようになったのでした。そう言われますと、この世で成功するためにいっしょうけんめい働こうとします。それがある意味で経済を発展させるもとになったといわれています。

  しかし、良い実か悪い実かがわかるのは刈り入れの時であり、それを見分けられるのは神様の仕事です。大切なことは、この世界にまかれた種の一つとして、私はどのように生きていくのかということです。種をまいてくださる神様の恵みにお応えして、私はどのようにふさわしく生きていこうとするのかということです。

  三浦綾子さんが『光あるうちに』という本の中で、自分のしていることが良いとか悪いとか考えないで、他の人のことばかり悪く考えていた、罪を罪と感じないことが最大の罪だと語っておられました。また、人はしばしば生きることの意味を見失ったり、むなしさを感じることがあるかもしれません。しかし、私たちにとって大切なのは、いつかはついに死ぬ自分が、その日までどのような姿勢で生きるかということ,繰り返しのような毎日を,いかなる心持ちで過ごすかということだといわれました。食事ができ、衣服を着て、しみじみと幸せだと思えるところを作る。それがどんなに大きなことか、働きであるか考えることが大切なのです。自分がこの世に存在することで、この世が少しでも楽しくなる、よくなるとしたら、それは大きなことだということです。良いことも悪いことも入り交じっているこの世の現実の中で、刈り入れの時まで,私はどのような実を結ぶのか、どのように生きていくのかということが問われているのです。