《説教要旨》『隠された宝』     大澤 宣 牧師

 マタイによる福音書13章44~52節

  イエス・キリストが語られたたとえ話では、天の国とは畑に宝が隠されているようなものだということがいわれていました。これを見つけた人は、自分の全財産を売ってでも,この畑を買うだろうということです。また、すばらしい真珠を求めている商人は、たいへんな苦労をし、時にはつまらないものをつかんでしまったりしながらも、すばらしい真珠に出会うことを信じて探し求めるのです。そのように、天の国とは,苦労をし、時にはつまらないことを抱え込みながらも,確かに宝があると確信しながら探し求めるものだということです。天の国、それは神様の支配が行われるときということです。神様が支配されるときは、必ず来る、ここに近づいているということです。それは、どこか特別なところに、何か良いものがあるということではありません。それぞれの日常の歩みの中で、多くのものがあり、これに意味があるのだろうかと思えるようなことを抱え込みながら歩いて行く、その中に確かにあるのだということがいわれているのではないかと思います。

  イエス・キリストは、「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」とも語られました。それは、古くから語り継がれてきた律法を中心とした教えと,イエスが新しく語られた神様の国の福音ということではないかと考えられます。律法そのものが悪いわけではありません。その精神は、神様と人との間に交わされた約束であり、愛に基づくものです。心を尽くし,精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神様を愛すること。そして、自分を愛するように隣人を愛すること。それが律法の精神だといわれました。

  佐々木正美さんと相田みつおさんの書かれた『自分の番を生きるということ』という本の中で、私たちの先に生きる人たち、私たちの後に生きる人たち、さまざまな人たちに親しさを持ち、自分の番が来たことを自覚して世代をつなぐ架け橋になること、それによって、私たちは本当に喜びを感じ、人生を幸福に生きることができると語られました。

  私たちの日常の歩み、取り組む働きという、取り立てて珍しくもない畑の中に、確かに宝が隠されています。私たちの歩みは,神様の愛に応えて、その価値を発揮していくことであると信じてまいりたいと願います。