《説教要旨》『愛を示される』 大澤 宣 牧師
マタイによる福音書18章10~20節
イエス・キリストが語られたたとえ話です。ある人が百匹の羊を飼っていて、そのうちの一匹が迷い出たとするならば、他の九九匹を山に残しておいてでも、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。そして、その一匹を見つけたなら、そのことを大いに喜ばないだろうか。
このたとえ話の前に、イエスは弟子たちの前で一人の子どもを呼び寄せ、このような一人の子どもを受け容れることが大切なのだと語られました。心を入れ替えて子どものようにならなければ天の国には入れないということ。自分を低くして、子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いということを語られたのでした。子どもが低いということではありません。子どもは、今、大切な存在であり、かけがえのない存在です。しかし、当時の社会では、子どもはほとんど役に立たない存在、数にうちに入れられない存在とみられていたのでした。
私たち自身、小さな存在であり、大きなことが出来るわけではありません。その私たちが神様の招きを受けているのです。共に生きるものとされているのです。
ブレイディみかこさんというかたが、『他者の靴を履く』という本を書いておられます。その中で、エンパシーということをいわれました。シンパシーと似ていますが、シンパシーは、同情する、共感するということで、誰かをかわいそうだと思う心であったり誰かの問題を理解して心にかけることであったりします。
エンパシーは、誰か他の人の感情や経験などを理解する能力だということです。相手の立場に立って、その人が、何をどう感じているのかを想像しようとすることだということです。それを『他者の靴を履く』と表現しています。それは履き心地の悪いものかもしれません。しかし、そのことを考えるとき、自分や仲間だけを愛するのではなく、他者を愛することへと導かれていくのです。
私は小さな存在です。しかし、一匹の羊が大切にされたように、決して捨てられることはありません。神様は私を見ていてくださるのです。その時、他の人も神様に愛されていることを受け止めて、相手の立場になって考えてみるようにいわれているのだと思います。イエス・キリストが、そのように愛を教え、示してくださったことを受け止めていきたいと思います。